霞を食うひと



学校帰りにここへ寄るのは、朝起きたら顔を洗うのと同じくらいの習慣になっていた。
高1のときにこの店を見つけて以来だから、もう2年になる。
かわらないたたずまい、安心する古びたにおい。この店の持つ空気全てが、俺の身体になじんでいた。

店先に置かれたベンチは、もともと真っ白だったのだろうけど、ところどころペンキがはげてまだらになっている。
それさえも味があるよなぁ、なんて考えながら、座ってタバコをくゆらす人物に焦点を合わせていった。

「待ってね、もう終わるから」

俺の姿を認めたその人が、特に慌てるふうでもなく立ち上がった。ふうぅっと長めに煙を吐き、傍らにある灰皿に燃えさしを押し付ける。ゆったりとしたその仕草を、俺は無言で見ていた。

「休憩中に、ごめん」

一言ことわりを入れた。薄い笑みが返ってくる。ほとんど毎日ここへ訪れていれば、こんな光景なんか週3で見られる。

少しくせのある黒髪を肩のあたりまで伸ばし、いつも後ろでひっつめている年齢不詳の店主――西崎(にしざき)さんは、ひょろりとした身体を軽く曲げるようにして店内に入った。
続いて俺も、なじんだ空間へと足を踏み入れる。今日はマーヴィンだ。

「暑かったでしょう」
「うん。もうすぐ夏休みだもんね」
「あとでアイスティーでもいれようか」
「ありがと」

たいてい毎回飲み物が出てくるけれど、ここは喫茶店なんかじゃない。『西崎レコード』はその名のとおり、れっきとしたレコードショップだ。
先代っていうのかな。西崎さんのお父さんが始めたらしい。10年前にお父さんが他界されたので、一人息子の西崎さんが、当時勤めていた会社を辞めて跡をついだというわけだ。
経緯について、詳しく訊いたわけじゃないけれど、2代目店主はゆるく笑いながらこう言った。

「会社勤めってがらじゃなかったからね。ちょうどよかったんだ」

たしかにこの人には、どことなく浮世離れしたところがある。
不詳だと思っていた年齢を、つい最近誕生日だと言うので教えてもらったら、「もうフワクだよ」と笑っていた。
急いでスマホで検索して、俺は目を見開いた。……四十にして惑わず。

西崎さんは独身で、この店の2階に住んでいる。俺が通いつめている2年の間、恋人らしき人の影を感じたことはない。だけどもそれを、寂しいとか感じてはいないみたいだし、諦めたり卑屈になったりしているふうでもない。

仙人みたいに霞でも食ってるんじゃないかと思うくらい、生活感もにおわせない。
開店している間はいつも、カウンターの内側にいてぼうっと音楽を聴いているか、休憩と称した一服に表に出ているか。
俺以外のお客が店にいるのを見たことがないし、本当にどうやって日々を暮らしているのだろう。

西崎さんにとってここは、人との出会いや収益を生み出す場所なんかじゃない。単なる毎日を過ごす空間だ。そこでただ、淡々とこの世を生きている。そんな感じだった。

狭い空間にずらりと並んだ棚の品物を指で物色する。特に探し物があるわけじゃない。これもほとんど習慣みたいなものだ。西崎さんはカウンターの奥にいる。

「不思議だな。これ聴いてると、涼しく感じる」
「そう?それはよかった」

音色がとかじゃないんだけど、なんとなく。飾らないスタンダードな選曲なのに、いつだってその日の俺の気分にぴったりくる。

「はい、アイスティーどうぞ」

カウンターの上に、氷入りの汗をかいたグラスが置かれた。喫茶店じゃないから、コースターみたいなものはない。
お礼を言ってから手を伸ばした。弓なりに細められた西崎さんの目に見つめられながら、一口だけ喉に通す。

「ほんと、桂(かつら)くんも物好きだよねぇ」
「……っ、そんなことないよ」

驚いて言葉に詰まった。
西崎さんが自らこの話題に触れてくることなんて、はじめてだったから。

「物好きなんかじゃない。じっくり知れば、そんな気持ちにだってなるよ」
「それはそうかもしれないけど」
「けど、とか言わないでよ」

頬を膨らませてみせる。すねて許されるのは、年下の特権だ。

「こんなおっさんに構ってないで、青春を謳歌したらいいのに……」
「俺は西崎さんと謳歌したいんだけど」

ここ半年、言葉を変えては何度も繰り返されたやりとりだ。
いい加減俺もしつこいとは思うんだけど、ひどく突き放されないから諦めきれない。駄々っ子をあやす西崎さんのほうも、扱い方がうまくなってきている。
西崎さんは、少し肩をすくめて視線をはずした。カウンターの向こうで、何か作業をし始めたみたいだ。この話題はこれで終わりってことか。
猫背のシルエットに手を伸ばしたくなったけど、やめた。こういうのを好む人じゃない。

具体的に、どこが好きかと訊かれたことはない。たぶん、訊かれたら俺は、困ってしまうと思う。
意図してやってる様子もないのに、自由なところが?
猫背気味にタバコを吸っているときの、気だるい雰囲気が?
まるで聞いてない様子でも、俺のつぶやきにきちんと返事を返してくれるところが?
くっきりとした理由はないけれど、そのどれもが好きだ。

見た目で言えば、40のおじさんが可愛い女の子に勝てるわけはない。
そのおじさんは、いくらこちらが求めたって、熱い視線もくれない。
学校での俺はそれなりにモテてるから、しようと思えば普通に恋愛はできる。

でもなぁ。
好きなんだよな。おじさんの西崎さんが。

「それが恋だと確信してるのって、若い証拠だと思う」
「若い証拠……?」

言葉を噛みしめて理解しようとした。時々西崎さんは、今みたいに小難しいことを言う。

「しかたないか。ほんとに若いんだしね」

苦笑を浮かべる西崎さんの肩に、手を伸ばす。
これだけ語ってくれたのならば、少しくらいは許されるだろう。

「……」

カウンター越しに、軽く唇を食んだ。こうしてキスをするのは、はじめてじゃない。

「好きなんだ」

わずかに離れた唇から漏れる吐息を感じる距離で、囁いた。
薄く開いていたそれが、ゆっくりと弧を描く。

「わかってるよ」
「それは答えじゃないって、いつも言ってるだろ」
「うん……」

西崎さんは目をそらした。なんだかんだで、今日もするりとかわされるのかな。慣れているけど、少し虚しい。

「桂くんの満足いく答えは、あげられないと思うよ」
「西崎さん……」

少し憂いを秘めた、寄せた眉。ああ、これも好きだなぁ。

「好きか嫌いかだけで、世の中は計れないしね」
「……少なくとも嫌いじゃないってこと?」
「うーん、そうだね」

そらした視線が戻ってくる。さっき触れた唇に、苦めの微笑が乗せられた。

「……どちらかと言えば、好きのほうかな」

この人の口から、その単語を聞けただけで俺は満足するべきなのかもしれない。
いや、実際かなり満たされた。胸がじわりと温かくなる。

「西崎さん、俺……」
「でも、君と全く同じは無理だから」
「……」

わかってるよ。そこまで望んではいない。
ただ、この人の生きてる場所の片隅に置いてもらえれば、それでいい。
そう思えるくらいには、西崎さんを見てきたつもりだ。

「俺はもう、若くないからね」

わかりきったことを言い訳に使うこの人は、もしかしたら臆病なのかもしれない。

「わかってるよ。いったいいくつ年の差あると思ってんの」
「にじゅうに」
「即答すんなよな」

くすくす笑う西崎さんと、唇を尖らせる俺。
そんなに年の差があるようには見えないと思うんだけど、いつも言われるからもう開き直ってる。

「一服してきてもいい?」
「……いいよ」

ほら、こんな話の途中なのに、まるで雑談してたみたいなぞんざいな扱いだ。
いちいち突っかかることはしない。
だけど、表情が憮然としたものになってしまうのくらいは、見逃してほしい。

カウンターから出てきた西崎さんは、箱からタバコを一本抜いた。それをくわえて表に出ていくのが、いつものパターン。
あれ、今日はくわえないのかな……

「……!」

すれちがいざま、俺の顔をのぞきこんだ西崎さん。その唇が、タバコのかわりに俺の唇をかすめた。
西崎さんからはじめてされるキスに、頬が熱くなる。

「……西崎さ…今の……」

慌てて振り返ると、ちょうど扉に手をかけていた彼も振り返った。

「タバコくさくなる前にな」

少しだけ照れくさそうに微笑んで、背をかがめて出ていく。
俺とたいしてかわらない身長なんだから、そんなにしなくても頭を打ちやしないのに。
キスの余韻にひたるよりも、そんなことを考えている自分に苦笑した。俺もだいぶ、このひとに影響されてきている。

そのうちあんなふうに俺も、執着も頓着もしなくなるのかな。今みたいな熱い気持ちは、維持できなくなるのかな。
でもまぁ、それもいいかもしれない。西崎さんと、おそろいならば。




END



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