ラボラトリー・ラバーズ
僕の研究室には、現在大学院生が5人いる。
理系の院生らしく、皆真面目に朝から晩まで研究に励んでいる。
生物学の研究室であるがゆえ、一日の大半は、標本作りと顕微鏡を覗くことに費やされる。
その待ち時間には、実験データの解析を行ったりするのだが。
解析に使用する特別なソフトは、研究室のメインPCにのみインストールされている。
そのメインPCは、僕の普段いる教授室を出てすぐのところに設置してあるため、院生とは少なからず会話の機会があった。
5人の院生―――その中に、僕にとって特に気になる存在が1人いた。
三津谷 玲(みつやれい)。
クールと言えば聞こえは良いが、どことなく冷たい雰囲気を持つ奴で、口数も少なく、滅多に笑わない。
淡々と仕事をこなすのだが、正確で速く、部下としては非常に有能だ。
こいつをなぜ、僕が気にかけるようになったのか……。
結論から言う。気が付いたら、目で追っていた。
動作をインプットされた機械のように、的確に運ぶ指。
それだけを追う目線。
引き結ばれた、薄い唇。
実験中は、そのサラリと流れる長めの黒髪を、後ろでひとつに束ねる彼。
邪魔なカーテンがなくなることで、その表情がくっきりとよく見えた。
僕が彼を意識するようになってからか、それ以前からかはわからない。
なんとなく、彼も僕を見ているような気がしていた。
メインPCの前に座る三津谷。
実験中ではないため、長めの髪はおろされ、毛先が肩口に流れている。
切れ長の瞳が、黒髪に見え隠れするのだが、それはPCの画面をじっと見つめているかと思えば、たまにこちらを見ていることもあった。
時折、視線が交わる。
確信はないものの、僕は、自分と三津谷との間に感じる、空気の揺らぎのようなものに、頻繁に心を乱されるようになっていた。
自然と、三津谷に声をかけるようになった。
重要な追加実験などの本来の仕事はもちろん、売店での買い物など、ちょっとした頼み事も、他の院生ではなく三津谷を探してしまう。
そんなにしてまで、僕は彼と接点を持ちたいのだろうかと、苦笑すること度々だった。
それは、全く予期せぬ出来事だったのか、自分の夢想が現実となったのか、今となっては分からない。
講座の新入生歓迎会の日だった。
昨年と同様、ホテルの宴会場を貸しきって行われた会で、僕は教授という立場上、最も上座に席を与えられており、開始までの時間、同門の重鎮に囲まれて少々窮屈な思いをしていた。
こちらから挨拶に赴き、近況を聞き、世辞を述べる。
成功しているOBには、いつ部下がお世話にならないとも限らないので、世辞などまったく本意ではなくても、礼を欠かさないよう、一人ずつ心を配って回った。
司会担当の助教が、マイクを取る。
やっと始まる。
ホッとした気持ちで、僕は席に着いた。
グラスに注がれた水を一口含む。
ゆっくり落ち着いてはいられない。
これから講座の代表として、台上からそれなりの挨拶をし、乾杯の音頭を取らなくてはならない。
就任して2年目になるが、その立場にまだ完全に慣れているとは言えず、教授、と呼ばれると、むず痒い気分になる。
「では、開会の辞に続きまして、乾杯に移りたいと思います。当講座教授、込山博巳(こみやまひろみ)がご挨拶させていただきます。皆様、ご起立ください」
現在の立場にはなかなか慣れないが、以前から台上に立つことは存外平気で、むしろ台の上でスポットライトを浴びたほうが、自分を出せると感じていた。
脳内に下書きもないまま、すらすらとそれらしい言葉が口から出てくるのを、どこか遠くで可笑しく思いながら、簡潔に挨拶をまとめた。
拍手の後、乾杯に移る。
ふと、彼の存在が気になり、台上から目だけで長い黒髪を探した。
講座の構成員であるから、当然参加している彼は、院生という立場上、末席にいるはず。
いた。
泡の消えかかったビールのグラスを片手に、覇気のない様子で片足に重心を置き、こちらを見ている。
束ねられずスーツの肩に散った黒髪が、言いようもない儚い色気を放っているのに一瞬見とれた。
その一瞬で、隙間からかすかに覗く漆黒の瞳が、揺らぎなくこちらを見ていることに気づく。
鼓動が急激に加速し、息苦しさを感じた。
それが緊張からのものではないことは、自分が一番よく分かっていた。
「…乾杯」
それ以前にどんな言葉を口にしたのか、全く記憶にない。
台からゆっくりと降りながら、僕は自嘲の笑みを浮かべていた。
たかが一人の院生に、教授ともあろう者が、何を翻弄されているのだ、と。
宴会は滞りなく終了した。
一次会で終わるはずもなく、店を変えながら重鎮をもてなし、疲れ果てた僕は、大学の自室に戻ってきていた。
僕は、家庭を持たない。
いや、以前は持っていたのだが、多忙を理由に破綻した。
研究に没頭すると、それ以外のことはどうでもよくなり、職場で仮眠を取りながら夜を越すこともしばしばあった。
研究者にはありがちな性格だったが、見合い結婚した当時の妻には全く理解されず、2年も経たないうちに当然のように僕の元を去っていった。
今思えば、女性を愛することが自分にできたのかどうかさえわからない。
薬品の臭いが漂う実験室を抜け、最も奥まった自室に入ると、僕は心底安心する。
この部屋に居ついてまだ2年目ではあるが、職場に初めて与えられた個室ということもあってか、不思議なほど愛着を感じていた。
込山教授室――そうもっともらしく看板を掲げた自室の簡易ソファに腰掛け、僕は目を閉じ、まぶたを指で押さえる。
疲れた……。
なんにせよ、この時間帯には疲れているのが常なのだが、宴会や大人数の人との交流には、普段が普段なだけに神経をすり減らされる。
理系の研究者など、こもるのが仕事みたいなものだから。
コンコン……
「……!」
突然耳に飛び込んできたノックの音に、背もたれに預けていた身体がビクリと跳ねた。
こんな深夜……3時になろうとしているのに、誰が……。
不審に思いながら、ドアを開けた。
「……みつ…や?」
そこに立っていたのは、不適に笑う三津谷で、それをこの目で確認した僕は、頭の隅のほうでなぜか、ああ、やはり……と考えていた。
「せんせい、入りますよ?」
三津谷だけなのだ。
僕のことを、「先生」と、まるで自分だけの家庭教師を呼ぶかのように軽い調子で呼ぶのは。
「こんな時間にどうした?」
実験に没頭していると、深夜3時に構内にいても全くおかしくはないので、一応聞いてみた。
ただ、宴会のあった今日は、実験が立て込んで今に至る、ということはまずないはずだ。
だとしたら、なぜ……?
「理由なんか、聞くんですか?」
先ほどからの不敵な表情を、全く変えない三津谷。
「……」
質問に対する答えが出ないのは……
「わかってるんでしょ?」
そうだ。
「俺が、何しに来たのかなんて……」
わかって……
「みつ……っ!」
突然伸びてきた腕に、頭を抱えられた。
勢いのまま、塞がれた唇。
わかってはいたけれど……。
心臓が壊れそうなほどの速度で打っている。
予感はあったものの、やはりこれは不意打ちだ。
焦がれた三津谷の唇は、しっとりと甘い。
そうだ、僕はずっと……。
三津谷に焦がれていたのだ。
こんなふうに甘く、激しく、求められたいと思っていた。
かき抱かれる背中に、震えが走る。
「せんせい?」
「な…に……?」
「見てたでしょ、俺のこと」
「お……まえこそ」
「あ、やっぱり?わかってたんだ」
いつもの敬語を捨てた三津谷に、我を忘れそうになる。
「人前で喋る先生、ほんとにかっこいいから、つい見とれちゃうんですよ」
普段のクールな様子からは想像もつかない甘い台詞を吐く三津谷。
真剣に口説いているのかと思いきや、その目は不敵な光を宿したままで……。
「いつも見てるんですよ、美味しそうだなって」
「あ、知ってるか」
そう自己完結した彼は、僕が目で追っていたことを当の昔に認識していた様子で、
こちらにとって分が悪いのは明白だった。
「みつ……や、もう……っ」
僕の制止の声は、無常にも彼の口の中に吸い込まれてゆく。
柔らかく甘く感じていた三津谷の唇は、獰猛に開いて僕のそれを覆い、美味しそうだと言った言葉のままに食い尽くそうとしている。
三津谷は、知っていた。
あるいは、知るように僕が仕向けたのか。
そう認識すると、後のことはどうでもよくなった。
今欲しているものを、得るために……。
僕は自分の意志で、三津谷の舌を絡めとった。
「……ふ……っ」
「んっ……ん」
お互い、息が上がっている。
この年になって、こんな情熱的なキスが交わせるとは思わなかった。
焦がれた相手だからなのか。
脳までも、しびれてゆく。
もっと、と三津谷の背中に手を伸ばしたときだった。
すっと離れる唇。
密着していた身体の間に、拳ひとつ分の隙間ができた。
「やっぱり貪欲ですね、先生は」
真意が、測れない。
「今日はここまで。もっともっと欲しがってください、俺を」
クスリと笑うと、三津谷は、呆然とする僕の肩をひとつ叩き、音もなく部屋から出て行った。
これが、その日の出来事。
*****
「……っはぁ…」
「先生、こっち向いて」
「……手加減…しろよ」
「無理。俺若いから」
若いというだけあって、こいつの持久力にはいつも悩まされている。
身体を繋げた翌日は、表に出る仕事が続くと、立ちくらみがする。
「ん……っやっ」
「もう、なんだってそんな可愛い声が出るの、おっさんのくせに……」
「く……そっ」
三津谷は、僕との年齢差を楽しんでいる風なところがある。
行為の最中に自分の若さを誇張したり、僕の老け具合をからかったりするのだ。
悪趣味だ、と思わなくもない。
が、しかし、そんな彼に翻弄されているのが現実。
「先生、俺が必要?」
「……聞くな」
「よかった」
答えにならない答えに、微笑む三津谷。
いつからだろう、僕を試すような不敵な笑みが、こんな柔らかな微笑に変わったのは。
いや、そんなことはどうでも良い。
僕はずっと以前から、彼に焦がれ続けている。
それだけは不変の事象なのだから。
END