シトラス環状線

01




峠の坂を登り切ると、海が見える。見えるといっても視界はそんなに開けているわけじゃない。下に広がるみかん畑の木々の間から見える、ちょっとケチくさい絶景だ。港まわりの古い街並み、停泊する漁船、遠くに霞んで点在する島々、細波ひとつ立たない穏やかな海。この島の象徴的な景色。

通学路の県道は、島をぐるりと周るように海沿いを走っている。わざわざここまで来なくたって、いつも海は隣にあるけれど、峠から見えるこの光景は、多少ケチくさくたってやっぱり特別だった。

夏の終わり。カレンダーは9月に入っているけれど、まだ夏は終わっちゃいない。隣で息を切らしながら海から来る風に吹かれている腐れ縁のカッターシャツに、汗がにじんでいる。道路の端に寄せた2台の自転車。メタルのボディーに反射する日差しがまぶしくて、思わず目を細めた。

「もーくんちゃんどこで鍛えとるんよー、ついていかれんわぁ」

「鍛えとらんわ、お前とおんなじじゃ。帰宅部の体力なめんな」

「おっかしーなぁ。なんで全然はぁはぁ言うとらんのー」

そう言いながら、腐れ縁の神垣 竣(カミガキ シュン)は、ゆるくうねる茶色い髪をかきあげた。ツーブロックにしているからか、暑そうな印象はあんまりない。校則に染髪禁止とか一切ないゆるい高校だから、シュンの髪色は決して珍しくはない。腰履きしたスラックスの裾は擦り切れそうだし、永久にお役御免な第一ボタンの胸元から、ごついシルバーのチェーンものぞいている。こいつってホントに……、

「田舎のヤンキー」

「誰がよ」

「お前しかおらんじゃろ」

「せめてチャラい言うてぇや」

「田舎は合うとるんか」

「そこは仕方ないわ」

ふははっと笑って、シュンはけちくさい海に目を向けた。

「なー、土日ヒマ?」

「ヒマじゃけどヒマじゃない」

「なんじゃそれ。どうせヒマじゃろ?」

「俺ら一応受験生じゃろうが。俺はたぶん推薦もらえるけど、シュン、そんなんでどうするん?」

高3の夏休み明け。俺たちの通っている高校の進学組は、推薦で大学を決めるヤツがほとんどだった。普通にテストを通過して、普通に過ごしていればどこかしらの推薦はもらえる。つまりシュンはいろいろ普通じゃなかったというわけで、その分のツケがこの時期回ってくるっていう……ま、自業自得なんだけど、大した遊び場もないこの島にいて、それだけ勉強ができない方が不思議だ。

「秋になったら本気出すけぇ大丈夫!」

「9月は秋じゃろ」

「だってさ、今週逃したら、たぶんもう海入れんようになるし」

深刻そうに眉を寄せてつぶやいたシュンに、一瞬ハッとさせられた。
たしかに、朝晩は涼しく思えるようになってきた。メジャーな海水浴場は先週で営業を終了している。その辺の浜で泳ぐにしても、今週末が最後になりそうだった。

「……しょうがねぇな。土曜は模試じゃけ無理じゃけど、日曜なら」

海なんて、いつだってそこにある。また夏になったら入れるじゃないか。お互いにそうは考えられなくなっている。今年が最後だって焦る気持ちが、俺たちの間をふわふわ漂っている。来年の春にはきっと、離れ離れだ。



夏の終わりの台風は、きまぐれに進路を変えた。直撃なんてほとんど食らわない瀬戸内の島にだって、影響くらいは出る。今年最後の海は、わざわざ確認するまでもなく風雨に荒れていた。

『無念』

シュンからのメッセージは一言だけだったけれど、その一言に全部集約されているような気がした。既読をつけて数分悩んだ、俺の返信。

『また来年なー』

たぶん、宙に浮いたままになる約束だ。空々しいかなって思わなくもなかったけれど、実際口にするよりはましだろう。
それで終わりになると思っていたやりとりは、意外な方向へ繋がった。

『ヒマなんじゃろ? 勉強教えてや』

特別家が近いというわけでもなかったけれど、狭い島で同級生といったらシュンとあと数人しかいなかったので、小さい頃はよくお互いの家を行き来していた。少人数の複合学級は、クラス全体が兄弟みたいなものだ。ケンカもよくするけれど、すぐに仲直りできる関係。

でも、誰かの家に集まるなんてことは、高校受験を意識する頃からだんだんと減っていった。義務教育が終わると本土の高校に進むヤツもいて、家族のような関係は自然と解消されてしまう。仕方のないことだけど、残される側だった俺は、高校入学直後、ホームシックにも似た感情に悩まされた。

シュンが家にくるのは久しぶりで、予想どおりむず痒かった。お邪魔します、と靴をそろえて脱いだシュンの表情も、ちょっとはにかんだ風に見えた。

「お前マジでやばいで」

「これから本気出すって言うたじゃろ?」

昔から数字に弱かったシュンの数学力は、目も当てられたもんじゃなかった。入試でよく使うだろう公式を書き出してやりながら、ため息をつく。

「こんなん基礎の基礎じゃってわかっとる?」

「1年の頃見た気がするけぇ、そうなんじゃろうねー」

「はぁ……」

「くんちゃん、ため息ばっかりついとるとシアワセが逃げるで?」

「誰のせいよ?」

たぶん通過できる推薦入試を控えた自分よりも、こいつを優先させなくちゃまずい。
どこに行くにしても、進学イコール本土だ。シュンを島に残しては本土に行けないっていうよくわからない使命感みたいなものが、俺の中にあった。

「ほんまにハードル高いのぅ」

「ハードルは高いほうが燃えるじゃろ?」

「何の話じゃボケ」

「くんちゃんひっど!」

大げさに顔を覆ってみせたシュンの頭を軽くはたいて、俺は考えた。シュンの学力不足は、冗談で済ませられるレベルじゃない。どうやって教えたらいいんだろう。

「……とにかく俺は、お前を連れて島を出るんじゃけ!」

勢いのままに口走ってしまってから、なんか変なことを言ったなって気がついた。

「くんちゃん……なにそれ……」

「っ! 言うな! 全然ちがうし!」

「駆け落ち? プロポーズ?」

「バカ! ちがうっつっとろーが!」

顔が熱いのが自分でもわかった。本当に全くそんなつもりはなかった。単純に、言い方を間違えただけ。シュンだってそれをわかって茶化している。そこまで理解しているのに、なんでこんなにムキになって否定しなきゃならないんだ?

「くんちゃんって、石根 邦友(イシネ クニトモ)だっけ? イシネ シュンかぁ。なんか良くない?」

「名前忘れんなし、で、なんでお前が嫁に来る設定なんじゃ」

「くんちゃんでずっと生きてきたけぇ、たまに忘れるんよ。別にくんちゃんがお嫁に来てくれてもええで? 瀬戸の花嫁、歌っちゃるで?」

「だまれボケ」

「まぁええけどさぁ。こんだけずうっと一緒におって大丈夫ってことは、一生一緒でもやって行け……」

「はぁーもう……。勝手に言うとれ!」

こんなにネタにされるとは思わなかった。シュンのヤツ、食いつきすぎ。二人とも普通の男子高校生なんだから、どっちが嫁でも気持ち悪い。

でも……。よく考えたら、シュンの言うことにも一理あると思えた。
ずうっと一緒。本当だ。指折り数えるくらいしかいなかった島の同級生の中でも、ここまで一緒にいるのはシュンだけだった。

主要産業は農業と漁業にあと少し観光業っていう、穏やかな海に囲まれたみかん畑まみれのこの島には、教育施設は小学校しかない。そこを卒業したら、橋で繋がった隣の島へ通って義務教育を全うする。高校はどっちの島にもない。

俺たちは中学校のあった島とは反対の隣島の公立高校を選んだけれど、島のそっち側には橋がない。なので、自転車のまま船で渡って桟橋から島を縦断するっていう不便な通学をしている。本土の高校に進学したって、不便さにはさほど変わりはないし、寮なんてものがあるならば、よっぽどそっちの方が便利だ。高校からバラバラになってしまうのには、ちゃんとした理由があった。

「一緒って言えばさぁ……」

「なに」

「ショウゴ、元気かなぁ」

「あーな……」

曖昧に返しながら、ガードレールにもたれかかるシュンにならった。
ショウゴーー橋本 正吾(ハシモト ショウゴ)は、中学まで一緒だった島の同級生だ。高校が別になったっていうか、本土に引っ越してしまったので、それから顔を見ていない。ショウゴ一家は、島を離れたがらなかった父方のじいちゃんが亡くなったのをきっかけに、母方の実家がある本土の街へ移ったと聞いている。

「今年もみかん、送ってやらんとね」

「ああ」

一家は引っ越してしまったけれど、ショウゴのじいちゃんが大事にしていたみかんの木は、まだ島に残っている。ついでだからと近所の人が世話をしてくれているみたいで、毎年それなりに実をつけていた。売り物には到底なりそうもないガサガサでシミだらけのみかんを、薄青いうちにもいで箱詰めしてショウゴの家に送ってやるのが、橋本家とこの島との残っている唯一の繋がりだった。

「ショウゴ、背ぇ伸びたじゃろうなぁ」

「俺らと遺伝子がちがうけぇの」

「くんちゃんがおんなじくらいで止まってくれてほんまよかったわ」

「不本意ながらの」

平均よりちょっと小柄な高3の俺たち。ショウゴは中3の時点でそれを軽く超えていた。
身長だけじゃない。三人の中じゃ運動神経も抜きん出ていて、何かと目立つヤツだった。

「部活とかバリバリやってモテまくってそうじゃなぁ」

「なに? シュン、うらやましいん?」

「そらモテたいでしょうよ」

「島におっちゃ無理じゃな。お前もショウゴに着いて本土行けばよかったんじゃね?」

「くんちゃんが残るんじゃったら残るって言うたじゃろ?」

そう言ってシュンは、ニカッと歯を見せた。
三人でいた頃は、どっちかというとショウゴに憧れて髪型なんかを真似したりしていたシュンだったから、てっきり高校進学もそっちだと思い込んでいた。三人組っていうのはバランスが難しい。2対1に分かれるのなら、シュンがショウゴ側に行ってしまうのは仕方がないと、どこかで諦めていた。

「……なんで俺」

「ん? なんか言うた?」

「なんでもない」

理由を訊いたとしても、きっと家がこっちだからだとか単純なものに違いない。自分は選ばれたんだとか自意識過剰なことを考えているなんて、シュンには知られたくなかった。




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