シトラス環状線
02
制服のブレザーの袖丈が足りなくなっていることに、今朝気づいた。俺だって、それなりに成長してるってことだ。
シュンみたいにカッターシャツと一緒にまくり上げていれば気にならないんだろうけど、生憎俺はそこまで制服を着崩すキャラじゃない。でも、まぁいいか。どうせあと1シーズンだ。卒業までのカウントダウンは始まっている。
「風が冷てーな」
「あーな」
下校途中のスーパー前で休憩する習慣は、高1のころから続いている。遠回りして峠を通る日以外は、必ずここで腹ごしらえしながらシュンと無駄話をする。コンビニやファーストフード店なんてない、高校生活だった。
「くんちゃん、それうまい?」
「んーまぁまぁ」
レンジでチンするタイプのイタリアのサンドイッチみたいなヤツをモグモグやっていたら、シュンが物欲しそうな顔をして訊いてきた。
「食う?」
「ん」
差し出したら、何のためらいもなくかぶりつくシュン。小学生のころから何も変わっちゃいない。
「まぁまぁ、じゃね」
「じゃろ?」
「ん」
新製品の辛口批評をしようと身を乗り出したら、突然シュンが下唇をペロリと舐めた。
「切れたわ」
「空気、乾燥しとるもんな」
でかい口開けたからかな。そう言ってシュンは、口を押さえて眉を寄せた。秋冬、こいつの唇はカサカサになりやすい。開きかけた口を閉じて、シュンの行動を見守る体勢に入る。
「リップリップー」
「女子か」
ポケットからリップクリームを取り出すシュンの仕草に笑った。
「あ、俺もう行かんといけんわ」
「なんかあんの、くんちゃん」
「母ちゃんの手伝い。週末本土で物産展じゃって」
「そういやそんなこと言うとったな」
俺の家は、父親は本土に通勤する普通のリーマンだけど、母親は物産店でパートをしている。シュンの両親は、父親が観光協会の人で母親が道の駅のレジにいる。観光産業に従事する親を持つもの同士、共通の話題には事欠かない。
「ええの、受験勉強せんでええヤツは」
「自業自得じゃろうが」
親の手伝いがうらやましいわけじゃないんだろうけど、こいつは根っから勉強嫌いだからな。
「ちゃんと勉強せぇよ」
「んー。あんがと」
シュンの頭を軽く小突いたら、反撃されるどころか嬉しそうな顔をされた。
「邦友、そっち終わったらみかんお願いね」
「あーい」
海産物の加工品って書いてある箱をひたすらトラックの荷台に運ぶ作業もあと一息、って思ったら、次の仕事を仰せつかった。俺が手伝いを頼まれるときは、こんなふうに肉体労働が多い。高校生男子の使い道なんて、どうせこんなもんだ。
みかん箱に手をかけ持ち上げる。乾燥した海産物とは全く違う重量感に、一瞬ひるんだ。
「バイト代出ねーのかなぁ」
わざとらしくつぶやきながら、値札をつけている母親の前を通りすぎた。バイト代なんて出ないのが当たり前すぎて、反応もしてはもらえない。
「もうみかんの季節かー」
「露地物はこれが初物よ」
そっちは拾うのかよ。舌打ちしたい気持ちを抑えながら、次の箱に着手した。
夏の間にスーパーでパック入りのハウスみかんは見かけたけど、やっぱりみかんと言えばこの箱入りのやつに限る。これが出回り始めると、寒くなるんだなぁって思う。
箱一杯に詰められたみかんは、早く食わないと底のほうから腐って緑色に崩れてしまう。その危機感とせめぎあいながら、指が黄色くなるまで毎日みかんを剥き続ける季節がくる。
「あんたはそういう小さいのが好きなんよね」
「こっちの方が味が濃い気がせん?」
「わかるけどね」
休憩がてら、訳ありで出荷できなかったみかんをざっと剥き、無造作に房をポイポイ口に入れながら、母親と過ごす時間。反抗期はとっくの昔に過ぎ去ったし、こうやって手伝いを頼まれることももうなくなるんだろうなって考えると、これも無駄な時間なんかじゃないと思える。
「皮が薄うてちぃと酸っぱいのがええんよ」
「好みはそれぞれじゃもんねぇ」
3つ目のみかんに手を伸ばす。出回り始めの露地物は、俺好みのやつが多い。
「そういえば」
「なに」
「シュンちゃんって大学決まったん?」
ガキのころからの変わらない呼び方に、なんでか俺がくすぐったくなる。
「いや。あいつ推薦無理じゃけ」
「受験勉強中ってわけね」
「そう。手伝っとる場合じゃないんよ」
去年まではシュンもここにいた。根っから社交的で明るいあいつは、見た目に反しておばさん連中に受けがいいので、今年はおらんのねって残念がる声を今日だけで5回は聞いた。人生の危機に直面している今年は、手伝いなんてしている場合じゃない。
「どこ志望なんじゃろ。さすがに大学まで一緒ってわけにはいかんもんねぇ」
「……そりゃね」
ずっと考えていたようで考えるのを避けていた現実が、俺の気分を塞がせる。
シュンの志望校は、あえて訊いてはいなかった。
*****
初物の出荷も無事終わったことだし、と息抜きにシュンを誘った。
といっても、遊びに、じゃない。そろそろショウゴに、じいちゃんのみかんを送ってやらなくちゃって思ったからだ。
「今年はちょっと遅かったかもしれんね。もう熟れとるかもしれん」
「かもなぁ。行かんといけんってずっと思っとったんじゃけど」
「さすがくんちゃん。俺なんかすっかり忘れとったわ」
シュンが頭を掻いたけれど、これはきっと嘘だ。ショウゴに関わるイベントを、こいつが忘れるわけがない。自分からは言い出しづらくて、俺が誘うのを待っていたのだろう。ショウゴが絡むと、シュンのテンションが変わる気がする。歯切れが悪くなって、こっちはモヤッとさせられる。
ガキのころよく遊んだ船着場を横目に通過し、秩序なく停められた軽トラ群の脇を抜ける。変わらない風景に、センチメンタルな感情がまた戻ってくる。
橋本家の崩れそうなトタン屋根の倉庫は、まだ残っている。鍵なんてないけれど、盗難の心配なんて誰もしたことがない。
錆びた蝶番をキィッと鳴らして扉を開け、入り口すぐに重ねてある買い物かごを手に取った。ひとつをシュンに渡してやり、建物の裏手に回る。幹の太いみかんの樹は、今年もしっかりと実をつけていた。この間物産展用に出荷したものと比べると、まだ青いものが多い。
「ぶっさいくじゃけど、うまいんだよな」
「あー。ほんまにな」
素手でもいだみかんの匂いをかぎながら、シュンが言う。真似して鼻を近づけると、いかにも新鮮なシトラスの香りがした。
「ヘタなアロマなんかよりよっぽどええよなぁ」
「それなぁ」
シトラスで俺が連想した光景を、同時にシュンも想像していたのかと思うと頬が弛んだ。
みかんの匂いは島の匂いだ。この先どこに行ったって、嗅いだら懐かしく思い出すのだろう。
できるだけ青いものを選んで、それぞれかご一杯に盛り、敬意を表して老木に一礼した。残りの実は鳥だとか動物にやるのが通例だ。食い散らかされるのだろうけど、その残骸が翌年のための肥料になる。
「こないだのみかん箱が余っとるけぇ、うちで詰めようや」
庭先で済む作業なので、躊躇いなくシュンを誘った。ショウゴの元の家から俺の家まで、10分もかからない。
*****
峠で食おうや、とシュンが言うので、それぞれ自転車を持ち出した。ハンドルに提げたビニール袋には、さっき収穫したばかりのみかんが入っている。詰め切れなかった分は、お駄賃代わりにもらうことにしていた。
坂の上を吹き抜けるのは、すっかり秋の風だ。乾いた枯葉の匂いがする。穏やかな気候の中で、緩やかに進んでいく季節。ここに来ると、島を離れたくない気持ちが湧いてくる。
「大学でダイビング始めたらさ、年中海に入れるんじゃね?」
「何言い出すんかと思うたら。そりゃそうかもしれんけど、お前はまず大学に入れるかどうかを考えろよ?」
海水浴納めができなかったことに未練があるらしいシュンが、海を見ながら突飛もない現実逃避を始めた。そりゃ俺だって、海には未練があるけどな。考えながら視線を向けた。葉を落とした木が増えたので、夏の間よりも見通しが良い。
いつものように並んでガードレールにもたれ、斜め後ろに海を感じながら、片手でみかんを揉み込む。こうすると甘くなるんだってどこかで聞いた。薄い皮に爪を立てると、果汁が飛び散る。まだ尖った柑橘の香りが、鼻を刺した。
「ショウゴんちに届くころには、も少し甘くなっとるかなぁ」
「そんなにかからんじゃろ。最近は通販したら島でも翌日お届けが常識じゃね?」
「本土言うてもそんなに遠く感じんな。便利な世の中になったもんだわ」
「じいさんか」
合わせて笑ったけれど、自らショウゴの名前を出したシュンに、内心動揺した。本土までの距離は、俺の持っている微々たるアドバンテージだ。
「……シュン、ショウゴに会いたい?」
考える前に、そんな言葉が口をついて出た。
「そりゃね。……くんちゃんこそ会いたいんじゃろ?」
俺をモヤっとさせるあの間で、シュンが訊き返してくる。
「……まぁな」
こそ、ってなんだよ。シュンの考えていることが全然読めない。
少しでも読み取れないかと、隣に座る幼馴染の表情をうかがい見た。
「うわ、沁みる」
俺のことなんかお構いなしに、シュンは大袈裟に眉をしかめた。酸味の強い果汁が、荒れた唇に沁みたらしい。
乾燥したシュンの唇が、寒さで赤みを帯びている。
痛そ……。
クルクル変わるシュンの表情から、いつの間にか唇に焦点が移っていた。
「……え?」
酸っぱ。
よかった。まだ熟れきっとらん。そう思いながら再びシュンの顔に焦点を戻す。
「っ、……悪りぃ、なんでもない」
呆然とこっちを見るシュンに、やっと自分の行動を自覚した。
知らないうちに、唇で触れてしまっていた唇。
「くんちゃ……」
「なんでもないって」
咄嗟にする言い訳が見つからない。行動の理由も見つからない。
いっそのこと逃げ出してしまおうかと考えた。けれど、足がすくんで動けない。
シュンの顔も見られなくなった俺は、ただ自分のつま先を見つめるだけだった。
時は止まってはくれない。凝視していた足から伸びる影が、心持ち長くなってきたような気がする。強くなったり弱くなったりしながら、乾いた風は吹き抜けていく。
「くんちゃん?」
「……なに」
もう待ちきれないといった様子で、シュンが俺を呼んだ。
少し落ち着いてきたみたいだ。受け答えする声がちゃんと出た。
「……あのさ、くんちゃん、俺のこと好きなん?」
シュンの質問は、俺の耳を素通りしてダイレクトに脳みそを揺らした。
……好き? 好きってどういうことだ?
「ねぇ、答えてよ」
質問の意味が理解できないのに、答えられるかよ。
「くんちゃん?」
焦れた様子のシュンが、俺の顔をのぞきこんだ。垂れ目気味の二重を縁取る長いまつ毛が、視界に入る。こいつの顔ってこんなだったっけ?
「……わからん」
「え?」
「わからんのんじゃって」
「でも……したじゃん、チュー」
「あれはっ……あれは魔が差したっつーか」
「くんちゃん、魔が差したでチューすんの? 男心傷つくわぁ」
「……」
「ごめん、そんなこと言いたいんじゃないんよ。ね、ホントはどうなん?」
「……」
どんどん俺を追い込んでいくシュン。らしくない。全然らしくない。
「わからんって言うとるじゃろ! 帰るで!」
これが今の正直な気持ちだった。
ガシャンと音を立てて自転車のスタンドを蹴り、勢いをつけてまたがった。
「ちょ……、くんちゃん!」
「じゃあな!」
ペダルを踏み込み、風に乗る。峠から一人の帰り道なんて久しぶりだった。
「邦友―? 晩ご飯ハンバーグなんじゃけど、和風と洋風どっちー?」
階下から母親が叫んでいる。こっちも同じくらい声を張れば聞こえるのだろうけど、そんな体力は残っちゃいない気がして、渋々ドアを開けた。
「和風にして。おろしとしそと、あと梅を叩いたのねー」
「わかったー」
和食屋のメニューみたいな表現が、よどみなく口から出た。不思議なくらい冷静な自分がいる。
『くんちゃん、俺のこと好きなん?』
あの時のシュンのリアクションは、至極当然だったと思う。キスをするってことは、つまりそういうことだ。冷たい潮風を切って走る帰り道、ずっと考えていた。
俺はシュンが好きなのか? そういう意味で?
自分の感情に全然気づいてはいなかったし、シュンと恋愛なんて想像もしたことがなかった。だけど、考えれば考えるほど、俺のシュンに抱いてきた感情は限りなく恋愛のそれだった。ショウゴに対する妙なライバル意識だとか、一緒にいられなくなることへの焦りだとか。
自覚したからといって、戸惑いなんて一切感じなかった。むしろ、納得。家に帰り着く頃には妙に落ち着いた気持ちになっていた。
「あんたは年のわりに、あっさりしたもんが好きねぇ」
「そう? かもしれんね。長生きしそうじゃろ?」
「若者らしくないわー」
「ええじゃん、別に」
母親とそんな会話を交わしながら、淡々と進む食事。やっぱり、心ここにあらずなんてことは一切なかった。
シュンを好きだっていう気持ちはずっと俺の中にあって、本人の自覚もないまま勝手になじんでしまっていたらしい。そのせいか、胸を焦がすような熱い想いはない。けれど、シュンのことを考えると、心の芯からじんわりと温かいものが湧き出してくる。辿り着いた感情の結論は、どうやったって疑いようがなかった。