塩味ハニームーン

01




1. いちょう並木の下で ―side広野拓海


バス停からほど近い南門を通り抜け、生物学部の玄関まで続く並木道。この季節だけは黄色い絨毯に覆われている。それでやっと、この並木がいちょう並木だってことに気付く訳なのだが。
俺はこの真っ直ぐに延びる通学路がいたく気に入っていて、特に黄色い絨毯を踏みしめるこの季節は格別だった。

今年で最後……、か。
4年間の大学生活も、残りわずか。
大学院に進学予定の俺は、春からもこの校舎に通うことが決まっていたが、前期で一般課程をザックリと取り、後期からはより専門的な研究機関に勉強に行かせてもらえることになっていた。だから、ここで過ごすこの季節は今年で最後になる。
多少名残惜しいような気もするが、やりたいことをそのまま一生の仕事にできるかもしれないチャンスだ。学生時代からマメに研究室に出入りした甲斐があった。

ふと俺は、しゃがんで一枚のいちょうの葉を拾った。形のきれいな、大きいのを選んだ。
他のどんな植物とも見間違うことのない独特の形。紅葉で見事に色を変える様。
――好きだなぁ。
そんなことを考えながら、俺はその葉を手帳に挟んだ。

その日のゼミを終え、アパートに帰る。
進学組の俺には、春からの新生活準備など全く縁がない。
淡々と過ぎる日常を、卒業までこなしてゆくだけ。

……のはずだった。

「ちゃんとやってっかな……」

インスタントコーヒーを煎れながら、つい独りごちる。
気になるのは、自分自身の新生活ではなく、あいつのことだ。

俺が5年間思い続けた相手。
夏休み、思いがけず地元で再会し、勢いで想いを伝えた。
あいつも好きだって言ってくれて、晴れて両想いになった訳だが。
あいつは地元で受験生。留学してたわけだから、浪人生ってのとは違うと思うけど、内情は似たようなもんだ。
俺は東京で大学生。夏休みが終わると必然的に会えない日々が続いた。
こっちの大学を志望して頑張っているって言ってたけど……。
あいつの志望校は、正直難関だ。高校のころから頭良かったけど、それでも受かるかどうか。

「はぁ……」

思わずため息をついてしまう深夜。 休みを終えて戻ってきてから、何度こんな夜を過ごしたんだろう。
会いたいのは山々なんだ。
だけど、あいつには必ず合格してほしい。そうすれば、春からは頻繁に会えるようになる。
電話でもして様子伺うかな、と携帯を手に取ったとき、部屋のチャイムが鳴った。

「よぅ」

慣れた様子で上がりこむ野々村は、少し酒の匂いがした。

「飲んでたのか?」
「まぁな。残り少ない大学生活だからな。遊べるうちに遊んでおかないと」
「お前はもう十分遊んだだろ?」

苦笑いすると、まぁな、と野々村は頭をかいた。

「てか拓海こそ遊び足りてねーんじゃね?夏からこっち、ますます付き合い悪りーしさ」
「そうか?」

自覚はないが、正直遊びに出るのは億劫だった。

「もしかして……、なんか言われた?」
「は?」
「ほら。地元に置いてきた遠恋の彼女だよ」

あぁ。
野々村はまだ、勘違いしたままだったか。

「彼女なんて……。いねぇよ」

本当のことを言っているので、後ろめたさはない。

「彼女じゃねーんだったら何なんだよ?お前をそこまで地元に惹き付けんのは?」
「食い下がるなぁ。そうだな……。敢えて言うなら、海かな」

地元の浜辺を思い出しながら言う。

「海……?あぁ、お前はそれ関係の研究がしたいんだったか」

やや納得した風の野々村に、安堵する。

「あぁ。地元の海は、特別なんだ……」

思い出すのは、夜のさざ波。
鼓膜を揺らす潮騒と、真っ直ぐに伸びる光の道。
そう。――あいつと見た。

「おーい。戻ってこーい」

野々村が、目の前で手を振っている。

「たく、ひとつのことに夢中になると他に何にも見えなくなるんだから……。ホント研究者向きだな」
「ありがとう」
「誉めてねーし」

そう言うと、これ以上話すことはないのか野々村は、持参したコンビニ袋をカサカサと言わせて缶ビールを取り出した。

「じゃ、とりま乾杯?」
「いつも悪いな、俺の分まで」
「気にすんな。一人で飲むより二人だろ」

野々村と、こうして他愛もない話をしながら宅飲みするのも後少しなんだな、としんみりした。何だかんだ言ったって、大学入ってからのダチの中では一番仲良かったからな。

……と、

「あ。ごめ……」

携帯の着信を知らせる画面に気付く。
すぐに通話ボタンを押せば、予想どおりのあいつの声が聞こえた。

「広野、何してるの?」

その声は、俺の鼓膜を柔らかくくすぐる。

「んー。ダチと飲んでる」
「店?……わりには騒がしくねーな」
「ん。宅飲みだから」

何の後ろめたさもなく、そう答えた。
目の前の野々村も、バタピーつまみながら勝手にビールを煽ってる。

「宅飲み?まさかお前んち?二人きりじゃねーよな?」

立て続けに質問され、軽くアルコールの入った頭がクラリとした。

「俺んちでダチと二人だけど?」
「マジで、お前……。あぁ、これだからノンケは……」

携帯越しに、呟く声が情けない調子にトーンを落として行く。

「あぁ。そういうことか。気にすんな。野々村はマジでダチだから」

安心させるように言うと、電話の向こうのあいつは渋々納得した。

「何ー?やっぱ彼女なんじゃん?」
「違ぇよ」
「んなこと言ったって、どう考えてもそりゃ嫉妬だろうよ。いいな、妬いてもらえるうちが花だぜ?」

嫉妬……?飯田が?
俺は脳裏にあいつの顔を思い浮かべた。
茶色い頭。少し垂れ目気味の目。スッと通った鼻筋に、形の良い唇。
誰がどう見たって、どう考えたって、イケメンのあいつが嫉妬?

「ぷ……。似合わねーし」

肩を震わせて笑ったが、やっぱり胸の奥がフルンと揺れた。
俺をそういう風に想ってくれるあいつ。
会いたいなぁ……。

「行けば?会いたいなら。この時期、もうそんなにゼミもないんだろ?」

見透かしたように野々村が言う。

「……いや。冬休みまで待つ」
「ストイックだなぁ」

何も自分の精神力を鍛えている訳じゃない。
あいつの邪魔をしたくないだけだ。

「なぁ。恋っていいもん?」

ビールの缶を目線の高さまで持ち上げ、それを注視しながら野々村が言う。

「なんだよ。したことあるならわかんだろ」
「……したことねーのかも知れない」
「は?この歳で?」

俺の方がビックリだ。

「あんまり遊びにかまけてたから、本気で恋愛すんの忘れてたかもな」
「……不幸だな」
「なぁ、いいんだろ?」
「まぁ……な」

これ以上恋人の存在を否定するのも今さらな気がして、俺はそう答えた。

「いいなぁ……。なんかちょっとやり残した感じ。社会人になってからでも間に合うかなぁ」
「学生生活はまだ少し残ってるし、社会人になってからだって出会いはある。恋に早いも遅いもないだろ」

何を慰めてんだか。

恋は、素晴らしい。
実際経験してみると、片想いですら、素晴らしいと思う。
共感し、誰かを一心に想うことは、自分の心を強くする。
それぞれが目標を持って前に進み始めた今、物理的距離は離れていても、お互いに頑張っていると考えることで、絆は強く感じられるようになった。

会えない時間が、気持ちを育てる。
昔の歌謡曲のフレーズじゃないけれど、俺はそれを如実に感じていた。
音信不通だった5年間よりも、気持ちを確かめ合ってからのこの2ヶ月の方が、俺のあいつへと向かう気持ちを急速に増幅させている。
あいつも同じように想ってくれているだろうか。
飯田……。会いたいよ。

ソファで横になる野々村の規則正しい寝息を聞きながら、携帯を見つめる。
さっき押した通話ボタン。
着信履歴呼び出して、もう一度押そうかな。せめて声が、聞きたいんだ。
迷いの中で見上げた壁掛け時計は、すでに深夜3時を指していた。
さすがにやめとこ。
長いため息をついて、俺はローテーブルに携帯を置き、変わりに手帳を取った。

昼間に挟んだいちょうの葉を指で摘まみ、くるくると回してみる。
楽しかった大学生活。だけど、あいつのいなかった大学生活。
あいつが戻ってきたことで、俺の世界は色を変えた。
過ぎた時間を懐かしく思うことはたびたびあるだろう。でも俺は、飯田と共に生きるこれからの時間を大切にしたい。
戻りたいとは思わない。
きっと。



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