星はすべてを語らない。

01



木枯らしの吹きぬける駐車場を通りすぎると、高木響矢(たかぎ きょうや)は慣れた仕草でネクタイをゆるめた。
通いなれているとは言っても、この辺りは工場や倉庫ばかりだ。スーツ姿の自分が浮いていることには、いつまでも慣れないでいた。
気持ちばかりのラフさを首もとに演出し、ひとつため息をつく。こんなことくらいでは、埋めることのできない隔たりがある。気楽に会えていたあの頃が懐かしかった。
事務所前に停められたトラックの陰をのぞく。運が良ければ、そこで出荷作業している友人を見つけることができるのだ。

「お……いた」
「あ、高木ぃ」

今日はラッキーだった。
学生時代から変わらないやや長めの髪は、相変わらず明るく染められている。ざっくりとタオルを巻いて後ろでしばっているけれど、ぴょこんと跳ねた毛先が見える。

「これ積んだら上がるから、待っててくれるぅ?」
「いいの? まだ終業時間じゃないでしょ?」
「いいのいいのー。俺、御曹司だからぁ」

椎ノ木悟(しいのき さとる)は、そう言って白い歯を見せた。
相変わらずの間延びしたしゃべり方だ。大学を卒業して家業の漬物屋を手伝っている彼は、本人の言うとおり、たしかに御曹司なのだけれど……。
漬物独特のにおいのする作業着と自分のブランドスーツを見比べ、高木は苦笑した。
御曹司ってガラじゃない。どちらかと言えば自分のほうがそれに近い。
このスーツは、外資系化粧品会社に就職し、営業マンとして働く自分の鎧だ。

「おまたせー」

普段着に着替えた椎ノ木は、ひょこひょこと弾むような歩き方で、こちらにやってきた。

「ホントにいいの?」
「いいのいいのー。どこ行く?」

いくら日が短くなってきたと言ったって、まだ飲みに出かけるような時間ではない。高木は飲食店のレパートリーを頭の中で展開しながら、難しい顔をした。
営業に回るうち、付き合いも増えた。遊び回っていた学生時代には考えられなかった、格式の高い店にも出入りするようになった。

――学生時代。高木は遠い目で振り返る。
日没後は、椎ノ木と過ごすことが多かった。大学がちがうにも関わらず、呼び出し呼び出されしていた日々。
二人ともそれぞれの大学のテニスサークルに所属し、最終的にはキャプテンをつとめた。
お互い、見た目だけで言えば、スポーツに打ち込むタイプではない。どちらかと言えば、イベント系のサークルで日々コンパに明け暮れていそうな大学生だった。
高木は自分の長めの前髪を、上目づかいにちらりと見た。就職と同時に濃い色に染めたときの、椎ノ木の顔が忘れられない。

「なんか遠くに行っちゃうみたいだなぁ」

そうつぶやいた椎ノ木の瞳に、小波が見えた。

「変わんないって。中身は今までどおりだよ」

笑い流したけれど、強く思った。
このままでいたい、変わりたくない、と。


*****

乾杯のビールジョッキを合わせると、二人とも息もつかずに半分をあけた。
結局、学生時代に通っていた居酒屋に入った。慣れた空間に、いつものつまみが並んでいる。

「このだし巻き、だし加減が絶妙なんだよねぇ」
「だし加減、って。もっとおいしそうな言い方ないの?」

「うーん、マイルドな口当たりぃ、とか? 似合わないねー」
「うん、似合わない。椎ノ木に料理コメントは無理だね」
「俺、食い物屋だよ? やめてくれるぅ?」
「食い物屋って」

ビールをぐいぐい空けながら、軽口で笑いあう。
何を話していても、楽しいだなんて。
この関係を失いたくない。椎ノ木は貴重な親友だ。

「仕事終わりのビール、最高ー」

親指で口元の泡をぬぐう椎ノ木。男にしてはぽってりとしたくちびるだ。
それを目で追いながら、高木は相槌をうつ。

「まぁね。でも、運動終わりもうまかったでしょ?」
「うん、試合のあとは特にね。お前らに勝ったあとは格別だった!」

「負けたことなんてあったっけ?」
「あるでしょぉ一回くらいー」

ほんの2、3年前のことなのに、お互いに声に懐かしさがにじむ。

「俺、次もビールね、高木もぉ?」
「あ、うん」
「オッケ。すみませぇーん」

手際よく店員を呼ぶ椎ノ木を横目に、まだ抜けないのかな、と高木は思う。
椎ノ木は、根っからのキャプテン気質だ。見た目に反して気が利くし、まわりをよく見ている。
同じキャプテンの立場だったのにな。椎ノ木といるとそれを忘れて依存してしまいそうになる自分を、高木はとうの昔に自覚していた。

「椎ノ木、最近運動してる?」
「なにそれ、おっさんくさいー」
「や、なんとなくさぁ、テニスしてたころが懐かしくなってさ」
「それはわかんなくもないけどぉ、してないのなんて知ってるでしょ? こうやってしょっちゅう会ってるんだしー」
「……そうだね」

変な間があいてしまった。
しょっちゅう会ってる。そのとおりだ。
高木は目を伏せた。

変に遠慮して声をかけづらくなってしまわないように、間隔に気をつかいながら自分が会いに行っているのだ。この関係を維持したいがばかりに。高木は自覚なく苦笑を浮かべた。
泡ばかりになったジョッキを形だけあおり、椎ノ木が目だけで聞いてくる。

「そろそろ?」
「かなぁ」

お開きのタイミングも、阿吽の呼吸だ。
短いやり取りだけで伝わる気楽さと、それを失うことへの不安。
――失いたくない。そう思うのに。

「またねー」
「うん、おやすみー」

金曜の夜の繁華街。人ごみにまぎれていく椎ノ木を、立ったまましばらく見送ってから、高木はため息をついた。
この背中を、何度呼び止めようとしたのだろう。声をかけるだけなら、椎ノ木は振り向いてくれるはずだ。でも、その後に続く言葉を、高木は持ってはいなかった。
お酒が入るといけないな。壊したくなる。何もかもを。矛盾した思いに翻弄されながら、高木は夜空を仰いだ。



*****

雪のにおいがする。しんと冷えた空気に、吐き出した白い息が溶ける。
大学3年生の高木は、ダッフルコートの襟元をぐいっと引き上げた。
夏でサークルを引退してから、あきらかに飲み会は増えた。週末と言えば試合が入ることが多かった。同時に飲み会の誘惑も週末に多かったのだけれど、特にキャプテンをつとめていた最後の1年間は、試合前日に深酒をすることは控えていた。
そんな週末の今夜も、学部の仲間と宅飲みをしていたがところだった。ほんのりと酔いが回りはじめたころ、携帯が鳴った。

『今駅前にいるんだけどさぁ……』

着信の相手を確認した時点で、用件はわかっていた。それから、その後自分がどう行動するのかも。

「高木も飲んでたのぉ?」

駅前の明るすぎる照明に照らされた椎ノ木が、ご機嫌で手をひらひらさせている。
こんなふうに呼び出されることには、すっかり慣れてしまっていた。

「飲んでたよ。いいところだったのに邪魔してくれちゃって」
「え、コンパだった? まさかのお持ち帰り妨害ぃ?」
「……そんなとこ」

本当はちがうのだけれど、少しくらい恩を売っておいてもいいような気がした。
特に相談するでもなく並んで歩きはじめる二人。飲み足りないから呼び出されるのか、酔うと高木の顔が見たくなるのか、そのどちらでもないのか。訊いたことはないし、その必要もないと高木は思っていた。

「さっぶいなぁ。熱燗飲みたーい」

手のひらに息を吐きかけながら、椎ノ木が肩をすくめる。その仕草をおっさんくさいと笑いながら、高木は慣れた引き戸を開けた。
お互い飲んできたのだから、二次会と言えばそうなのだろう。けれど、こうして椎ノ木と向かい合うと、直前までの飲み会のことはすっかり抜けてしまう。

「熱燗ねー。お猪口ふたつで!」

座るなりカウンターに向かって注文を飛ばす椎ノ木を横目に、高木はうすく微笑んだ。
こいつの根っから明るいところが好きだ。そういえば椎ノ木から、愚痴や恨み言の類は聞かされたことがない。苦労の多い1年間のキャプテン稼業、不安や愚痴ひとつこぼさずやり遂げたのだろうか。
高木の方は、酔うとたまにチームの愚痴をこぼすことがあった。椎ノ木は特にアドバイスするでもなく、ただ聞いているだけだったのだけれど、こちらにやんわりと注がれる視線だけで、十分癒されたものだった。
よく言えば前向き、悪く言えば軽薄にもとられる椎ノ木の性格だけれど、チームのすみずみまで気を配り、さりげなく牽引していく能力を持っている。第三者目線でそれを見てきた高木は、ひそかに尊敬の念を抱いていた。

「ねぇ椎ノ木、疲れない?」
「ん? 引退したからむしろ運動不足なくらいだけどぉ?」
「じゃなくて。たまには吐き出したくなったりとか、ないのかなぁって」
「ははっ。そっちねー。うん、あんまりない」
「うらやましい……」

からからと笑う椎ノ木。目元がほんのりと赤い。
余裕だな、憎らしいくらいに。でも、たまにはあるだろう? というか、あってほしい。そして、その愚痴を聞くのは自分の役目であってほしい。

「俺、椎ノ木に頼られてみたいんだよね」

酔いにまかせて本音をこぼせば、

「え、頼ってるよ、ってか依存してんじゃん? ほら、今日みたいに呼び出しちゃうし」

「……ははっ。それもそうだね」

そうか。依存してくれているのか。
高木は少し誇らしい気持ちになると同時に、面映くなって顔を伏せた。


居酒屋を出たところで少し立ち話をしていたら、背中から声をかけられた。

「二人同士ってことで、カラオケにでも行かない?」

会社帰りのOL風な二人連れだった。コートの下は、スーツとまではいかなくてもコンサバにまとめてある。二人とも、ヒールの細いパンプスが心細く見える程度には、酔っているみたいだった。
断る理由もなかったので、酔いにまかせてカラオケボックスに入った。高木も椎ノ木も、女慣れ、コンパ慣れしている。着席した時点で、それぞれの今夜送る女は決まっていた。
いつものコンパのノリで盛り上げる椎ノ木。ハイトーンの美声でしっとりと歌い上げる高木。彼女たちも、これは声をかけて当たりだったと思っているにちがいない。

ほろ酔い気分にアルコールを追加し、高木は少しテンションを上げた。向かいでは椎ノ木が、女の耳に何かささやいている。
隣で歌う女の子に、タンバリンで合いの手を入れると、マイクを渡された。一緒に歌えってことか。高木は立ち上がり、裏声を使って盛り上げた。
歌い終わってソファにもたれる。少し疲れた。

「ねぇ、椎ノ木くんのくちびるってかわいくない?」

椎ノ木サイドに座っている女が、隣で歌う口元をのぞき込みながら言うのが聞こえた。

「私も思ってたー。なんかキスうまそうだよね?」

高木のそばから、共感の声が飛ぶ。ふたりで盛り上がっているところに、一曲歌い終わった椎ノ木本人が加わった。

「たらこくちびるって言われるけどねー。うまいかどうか、試してみるぅ?」
「えーやだぁ」
「でもほんとにうまそうー」

キャッキャと大げさにはしゃぐ女たちを、高木はなんとなく面白くない気持ちで眺めていた。

「やわらかそうだしねー」
「ぷにって感じ。触ってみたーい」
「えー、指でいいのぉ?」

なんだって、こんな初対面の女に……。イラッときた高木は、テーブルにバン! と手をついた。そして、

「だったら俺が試してあげる!」
「……えっ……っ!」

ぐいっと勢いよく椎ノ木の頭を抱き寄せ、そのくちびるを奪った。
息を飲む女性陣に気をよくした高木は、目だけでニヤリと笑う。せっかくだから、見せつけてやろう。
二度三度と角度を変え、最後にあま噛みした瞬間、椎ノ木と目が合った。
当然乗ってくれているものだとばかり思っていた。けれど、その瞳は無表情にこちらを見据えたままだ。

ビクッとして、そっと身体を引いた。声が出ない。そんな高木の目を見据え、椎ノ木がぼそりとつぶやいた。

「……マジになんないでねぇ?」
「……!」

声は軽い調子だったけれど、目が笑っていない。一瞬でカッと頭に血が上った。
マジ……、に……?

「こんなの楽勝だってぇ。俺ら親友だもーん」

わざとらしく高木の肩を抱き、へラッと言ってのけた椎ノ木の言葉が、やけに胸に痛かった。この痛みの原因はなんだろう。考えてはいけない気がする。高木は慌てて、そばにあったチューハイを飲み干した。
動揺する高木をよそに、椎ノ木は選曲をはじめた。しばらくすると、キャッキャとはしゃぐ女の子の声も聞こえてきた。上辺だけの表情をはりつけたまま、高木はなんとかその場を乗り切った。

グラスのチューハイをコトリと置き、くちびるを拭う。まだ消えない感触に、動悸がする。
マジになるなと言った椎ノ木の、真剣な瞳にやられた。いや、さっきやられたのではない。きっとずっと前から……。
気づいてしまった感情に、めまいがした。本気になるなと言われた瞬間に、本気だったことに気づくなんて。
自分自身も把握していなかったこの想いに、椎ノ木は気がついていたにちがいない。それで、釘を刺したのだ。なんて聡い奴なんだろう。






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