星はすべてを語らない。

02



とろとろの卵から、湯気が立ちのぼっている。
食欲をそそる目の前の光景に、高木は思わずごくりと唾を飲み込んだ。

「うまそうだろ? じゃねぇな、うまいんだよ。冷めないうちに食おうぜ」
「はい」

そば屋のカウンターに並んでいるのは、会社の先輩。田渕(たぶち)といって、高木より5年早く入社した、いまや成績1、2を争うやり手営業マンだ。
今日、わりと大口の契約が取れた。夕方帰社してから、ご機嫌な田渕が飯でも行くかと誘ってくれたので、一も二もなくうなずいたのだ。

「カツ丼のうまいそば屋に連れて行ってやる」
「そばじゃないんですか?」
「カツ丼なんだよ。面白いだろ?」

ビジネス街を早足で歩きながら、田渕は笑った。
営業の世界にいれば、食事処にだけはくわしくなるらしい。この辺りの会社員の間では有名な「そば屋のカツ丼」。
今度誰かに教えてやろう。すぐに頭をよぎった「誰か」を打ち消しながら、湯飲みのほうじ茶を飲み干した。

「そば屋っていうのがいいだろ? 一度お前を連れてきてやりたかったんだ」

おしぼりで口を拭いながら、田渕が笑う。大柄で体格のいいこの先輩は、見た目どおり体育会系の性格らしい。
面倒見のよい先輩。自分はどんな先輩だっただろう。ふと学生時代に思考が飛んだ。

「ちょっと真面目な話、してもいいか?」

浮遊していた思考が呼び戻される。こんなふうに前置きをするところも、田渕の一本気で真面目な性格を表している。

「はい、なんでしょうか」

田渕は目線を泳がせながら、言いにくそうに切り出した。

「あのさ……高木は、えーと、その……そっちなのか?」
「え……」

唐突な質問に、息を飲む。
そっち、って。

「いや、答えにくいよな。いいんだ、気にするな」
「どうし……て……?」

質問の意味を問うのも忘れ、高木は理由を訊ねた。
田渕は間違いなく、高木の性的嗜好を知りたがっている。

「やっぱりそうか。いや、俺は偏見とかはないから。それに言いふらしたりも……」
「いやあの、ゲイってわけでは」
「え? ちがうのか?」
「はい。あの……両方、というか」

さすがに夕食時のそば屋でする会話ではない。高木は言葉を濁した。

「そうか……」
「あの、どうしてそう思ったんですか?」

会社ではつとめて真面目に過ごしている。社会人になってからは、適当なつまみ食いのようなこともしていない。


「今日の契約」
「え」

意外すぎる田渕の一言に、高木は目を丸くした。
まさか、そうくるとは。

「お前にそのつもりはなかったのかもしれないけど」

田渕の読みは、的外れではなかった。大口の契約だった。今日は高木主導でやってみろと言われ、何がなんでもと必死だった。
上の立場にも関わらず、柔らかい物腰の交渉相手。もしかしたらその気が、と勘が知らせた。最後のひと押しにならないかと淡い期待をこめて、少しだけ色目を使ってみたのだ。

「あの……」

まさか、この純粋培養されたおおらかそうな先輩に、見破られるとは。

「うまく引くことができたからよかったけど、あれ、下手したらあのまま枕営業だぞ?」
「はい……」
「どんな相手にも、あの手でいくのは危ないと思う。あの部長はそうだって噂がある。知ってると思うけど、美容業界は多いんだ。お前にそんな目には合ってほしくないから、言っておくけど」
「すみません」
「いや、契約を取れたのはお見事だったけどな。一応、な」

枕営業、か。正直それも覚悟していた。うまく転がせる自信はあったけれど、万が一失敗しても、契約さえ取れたらそれでよかった。

「気をつけます」
「そうしてくれな。上も高木には期待してるんだから」

口先だけでしおらしさを装ってはみたけれど、自分の表情が冷めていることに、高木は気づいていた。
貞操観念なんてものは、とうの昔に捨てた。ずっと焦がれている相手には、とうてい手が届かない。操立てなんてする必要はない。
欲深い方だという自覚はある。それを解消する手段は選ばない。この身体が武器になるのなら、願ったり叶ったりだ。

「今度はカレーうどんのうまい寿司屋に連れて行ってやるよ」

そう言って白い歯を見せた田渕を、高木は表情のない顔で見送った。



*****

「きょうちゃん、久しぶりじゃない?」
「だね。就職したばっかりで、忙しかったから」

ベッドに腰掛けて子供っぽく足をばたつかせているのはダイゴだ。その仕草が計算し尽されているとわかっていても、愛くるしい。
学生のころからの遊び相手を、思わず呼び出してしまった。ひとりで部屋に帰りたくない気分だった。

「で、やんの? やんないの?」
「え?」
「きょうちゃん、あんまりその気がなさそうな顔してる」
「そんなことないよ」
「別にいいけど? なにかあったんだったら、話聞くだけでも」

そう言いながら、ダイゴはボサッと仰向けに倒れた。顔を見ないでいてくれるのは助かる。

「きょうちゃんはさ、なんでこっち側にきちゃったの?」
「なんでって……」

高木は言いよどんだ。
今日のもやもやの原因を突き詰めればそこに行き着くことに、ダイゴは気がついているのだろうか。だとしたら、察しがよすぎる。

「あ、警戒してる? 大丈夫、僕なんにも考えてないから。ただちょっと、聞いてみたくなっただけ」

口調がやわらかく、一人称が「僕」のダイゴは、童顔で小柄なバーテンダーだ。年は高木より3つ上の、26歳。察しがいいのは職業病なのか、それとも少しだけ大人だからなのか。
ダイゴと知り合ったのは、高木が椎ノ木への想いを自覚してまもなくのことだった。
男ばかりが集うそのバーは、ネットの口コミで知った。
ひとりでふらりと訪れた、やたら綺麗な顔をしたなじみのない客だった高木。所在なさそうなふるまいに、これも仕事だとダイゴは声をかけた。

「何かおすすめ作りましょうか?」
「ありがと。でも大丈夫。ジーマもらえる?」

ひと声かけられて、高木の表情がゆるんだ。受け答えには余裕が感じられるけれど、ダイゴにはそれがはっきりとわかった。
自分よりも年下に見えるのに、やけに大人びた物腰のバーテンダーだと思った。営業用だとわかっていても、人懐こい笑顔が高木の緊張を解してくれた。

「こういうところは、はじめてですか?」

まるで滑るようにカウンターにジーマが置かれた。高木が瓶に触れるとすぐ、言葉が投げかけられる。バーテンらしく、丁寧なものの言い方だ。

「わかっちゃう? 恥ずかしながら、そう。ちょっと緊張してる」
「誰だってはじめてはありますからね」
「うん……」
「良い出会いがありますように」
「ありがと」

はにかんで笑う高木に、気障にウインクを送り、グラスを磨きはじめるダイゴ。全てが職業人として完璧だった。
自他ともに認める遊び人の高木は、それまで異性の身体しか知らなかった。それで満足できていたので、同性など考えたこともなかった。椎ノ木を意識するようになって初めて、その世界に興味を持った。いや、興味などという生優しいものではなかった。知りたい、と切実に思うと同時に、決して満たされることのない欲を、少しでも消化したかったのだ。

ゆるい口調と人当たりの良い物腰に反して、高木は頑なに自分を語りたがらなかった。すすんで語る客の話に耳を傾けるのが仕事だと考えているダイゴは、客の口を無理には割らせないのが信条だ。当たり障りのない会話で、初対面の日は過ぎていった。

次に二人が顔を合わせたのは、男ばかりが出会いを求めて集まるパーティーだった。
客としてその会場を訪れたダイゴは、やはりこの日も一人で壁際に立っている高木に気づいた。

「今日もひとり? 壁の花じゃん」

ひとりなら、一緒にどう? と誘いたかったのだけれど、ダイゴは言葉に含ませるにとどめた。
高木の視線がダイゴに止まる。Tシャツに淡いグレーのソフトな素材のジャケットを軽く羽織り、ダメージジーンズをはいている。なでつけてあった髪の毛も、ラフにおろしてあり、バーテンのときとはずいぶんイメージが違う。
仕事ではないので、ダイゴの言葉づかいはくだけている。切り替えの上手さに、高木は好感を持った。

「ひとりだよ。人が多くてびっくりしてるところ」

さらりと答えた高木は、さほどびっくりしているふうでもなく、フロアで繰り広げられている人間模様を眺めていた。

「誰か探してるの?」
「いや、いい人いないかなぁってさ。そういう集まりでしょ?」

とても探しているふうには見えなかった。ダイゴはますます興味を持った。

「俺でよければ、相手になるよ?」

高木はチラリとダイゴを見た。

「俺、タチできるヤツを探してるの。君はどう見てもネコでしょ?」

それを聞いたダイゴは、ニヤリと笑う。

「残念。僕、こう見えてバリタチなのー。慣れてるから、はじめてでもよくしてあげられるよ」
「……びっくり。そんなに可愛いのに?」

唖然とする高木に、ダイゴは笑みを深くする。

「それに、多分僕の方が年上だよ」

全く知らない男と過ごすよりは、と、高木はダイゴと一夜をともにした。
はじめての男。そんな甘い響きとは無縁の、欲にまみれるだけの夜だった。


*****

「やっぱしよ?」

ギシリとベッドが鳴る。
仰向けに寝そべったダイゴの身体をまたぐように、高木は四つ這いになった。

「なんか今日のきょうちゃん、エロいな」
「何言ってんの。俺がエロいのなんて、いつものことでしょ」
「ちがう、なんていうの、立ちのぼるオーラがピンクなの」
「ピンクってやだな」
「じゃあ、どピンク」
「一緒じゃん……」

笑いながら、高木はダイゴの首筋にくちびるを這わせた。

「今日は俺に乗っからせてね?」

主導権を握る宣言をすると、返事のかわりにダイゴの肩がふるえた。

鎖骨に歯形をつけると、ダイゴが身をよじって鼻を鳴らす。バリタチだ、と不遜な顔をしていたけれど、やはりどこか見た目どおりなところがある。

「や……きょうちゃん、痛……」
「嫌じゃないくせに。しっかり勃たせてなよ?」

高木の嗜虐趣味は、同性を相手にするときにだけちらりと顔を出す。切れ長の目元で射るように見据え、言葉で冷たくあしらうと、大抵の男は興奮してくれる。
高木が相手にしてきた男は、ダイゴだけではない。ダイゴがいちばんの古株で、会った回数も多い。それなりに情も湧いてはいたけれど、ひとりにしぼるつもりなどさらさらなかった。
セックスは、面白い。相手によって、ちがう光景が見られるから。

――ちがう相手。小柄で華奢なダイゴは、高木より少し体格のよい椎ノ木とは似ても似つかない。
ダイゴを選んでよかった。相手がダイゴならば、行き場のない想いを間違って投影してしまうこともない。
すっかり慣れた手つきで自分の準備を進めながら、高木は安心して息を乱した。




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