星はすべてを語らない。

05



椎ノ木は無言で歩き、無言のまま高木をタクシーに押し込めた。送っていく、と言った言葉どおり、運転手にてきぱきと高木の住所を伝える。
街灯の流れ去る車窓は、頭痛をひどくする。せめて遠くを見ようと、高木は空に目を向けた。
ひた走る車を、どこまでも追いかけてくるのはオリオン座だ。振り切って逃げることなんてできないけれど、誰もそれを試みたりはしない。きっと、星は何も言わず、ただそこに在るだけだから。
散った桜かな。車を降りると、春の夜のにおいがした。

「……一晩にふたり酔っ払いをタクシーに乗せるなんてなぁ」

天井灯を点したタクシーが走り去るのを見つめながら、椎ノ木がやっと口を開いた。

「誰が酒に弱いって?」

高木は、ぼそりと不機嫌に反論する。まだ椎ノ木の顔は見られないでいた。


「ま、入ろうよ」
「……俺んちなんだけど」
「知ってるー」

これまでどおりの会話だ。自然すぎて、3週間ぶりとはとても思えない。
先に立って階段を上った椎ノ木が、部屋のドアの前で手を差し出す。高木は無言で鍵を渡した。
部屋に入ると、椎ノ木はいつものようにテレビをつけた。週末の深夜番組は、にぎやかだ。
高木は冷蔵庫からビールの缶を出した。

「……まだ飲むのぉ?」

目線はテレビに向けたまま、椎ノ木が苦笑した。

「いらない?」
「いらない。高木もやめとけば?」
「……」

いつもどおりのようで、いつもとはちがう。椎ノ木は出された酒を断ったりはしない。
その意図を考えながら、高木はビールの缶を手に持ったまま立ち尽くしていた。

「酔っぱらいなんでしょ?」
「酔ってなんか……」
「酔ってもないのに、あんなオヤジと寝るの?」
「……」

椎ノ木の声は硬い。やっぱりいつもとはちがう。

「……いつもあんなことしてんの?」
「して……な」
「あれは誰?」
「と、取引先のえらい人で……」
「ふうん。そうやって仕事取れるくらい、慣れちゃってるわけだ?」
「ちが……!」

今まで聞いたことのない蔑むような口調で、椎ノ木はまくし立てる。明らかに苛立っているのが、追い込まれた高木にもわかった。

「高木、何考えてんの?」
「何って……」
「誰とでも寝るとか、俺だって人のこと言えた口じゃないけど、女抱くのとはわけがちがうよ……」
「……」
「俺、お前のことがわかんなくなった。とっくに遠くに行っちゃってたんだな。まだ手の届くところにいるって思ってたのに」
「椎ノ木、」
「ごめん、俺も何言ってるのかわかってない」

高木の言葉を遮り、椎ノ木は頭を抱えた。
言い訳のひとつもできずにいた。高木が不特定多数の男とベッドをともにしてきたことは、まぎれもない事実だ。

「……帰るわ」

高木の顔を見ることもなく、椎ノ木が立ち上がった。
追いかけていくこともできない。
高木は思考を停止させたまま、焦点の合わない目でテレビを凝視するだけだった。

ガチャン。玄関ドアの閉まる音がした。
鍵、しめなきゃな。条件反射で立ち上がる。
ドア越しに、カンカンと階段を降りる音。
――行ってしまう。

「……っ」

高木の身体を、電流が通り抜けた。
仕事帰りのスーツのまま、適当なサンダルを突っかけ、外へ飛び出した。
アパートを出ると、歩き去る背中が見えた。いつもよりゆっくりな歩調。
よかった、間に合った。

「ま……って……!待って椎ノ木!」

もつれる足で走り、息を切らしながら、歩き去ろうとしている背中を呼び止めた。立ち止まった椎ノ木の腕を、ぐっとつかむ。リアクションはない。振り払ってまで立ち去る意志はないらしい。

「……なに?」
「ちょっと待って」

言いたいことは、何ひとつ言えていない。伝えたいのは、言ってはならない言葉。
それを口にしたとしても、このままこの手を離したとしても、同じ結果が待っている。
それなら、言わなくちゃ。高木は必死で息を整えた。

「椎ノ木、俺ね」
「わかってる」
「え……」

勢いを削がれてしまった。言わせてもくれないのか。

「……わかってるから、わかんないんだ。なんであんなことすんの?」
「それは……」
「俺が好きなんでしょ?」

告げる前に、言われてしまった。
やはり椎ノ木は、とっくに気づいていたのだ。

「……そうだよ」
「それなのに、どうして他の男と」
「お前のせいだ」

言った瞬間に、高木の頬が濡れた。
ふるえるくちびるを噛む。

「高木、」
「……お前が、椎ノ木が悪い」

涙声でつぶやくと、椎ノ木は口をつぐんだ。

「俺がどれだけお前のこと……」

想いを自覚してからの、切ない夜。一緒にいるのに、遠かった。顔も覚えていない相手と過ごした、虚しい夜。椎ノ木じゃないのなら、誰でも同じだった。
悔しさに似た何かが、高木の喉元を焼く。

「……泣かないでよ」
「だ……って」

公道にも関わらず、しゃくりあげる高木。それを照らし出して通りすぎた車のテールランプが、角を曲がる。

「ごめん。……ごめんってば」

椎ノ木は、つかまれているのとは反対の腕で、高木の頭を抱き寄せた。耳元で聞こえる謝罪の言葉もふるえている。

「……椎ノ木、やめて」
「やだ」
「どうせまた、突き放すくせに」
「そんなことしない。そしたら、また他の男と寝るんでしょ?」
「……今さら嫉妬?」

思考がそのまま口から出た。
黙りこんだ椎ノ木。
言うんじゃなかった。高木は後悔の吐息をつく。

「……そうみたい」

時が止まる。
耳に入ったのは、かすれ声の肯定だった。

「……ほんと?」

予想外の展開に、呆けたような声が出た。
信じられない。
椎ノ木が、妬いてくれるなんて。

「ほんと。だから、ごめん」
「ゆるさない」
「高木ぃ」
「……ふ」

拗ねたような態度の椎ノ木に、思わず笑いが漏れた。身体の緊張が解けると同時に、椎ノ木をつかんでいた手も緩む。自由になった椎ノ木の腕が、そっと身体にまわされた。

「もうすんなよ?」
「……うん」

顔をうずめた椎ノ木の肩口のにおい。すぅっと吸い込んだら、胸にじんわりと温もりが広がった。

「ねぇ、今日泊まってく?」

照れの混じった声が出て、高木は羞恥に赤くなった。
誰かを誘うことなんて、なんでもなかったのに。

「うん、泊めて」

ためらいなく答えた椎ノ木は、高木の身体をギュッとひとつ抱きしめた。
信じられない。信じられない。高木は長く息を吐いた。
夢を見ているのかも知れない。高木はうす目を開けて、現実の夜を確かめた。
あ、まだいる。
想いびとの肩越しに、さっきのオリオン座が見えていた。



*****

高木は先に椎ノ木を部屋に上げた。ただいま、なんて冗談めかしながら、点いたままだったテレビの前に座る椎ノ木。その隣に、人一人分の間を空けて腰を下ろす。
椎ノ木がテレビを消した。ふたりの間にできた微妙な空間に半身を乗り出し、高木に顔を向ける。真剣な表情だ。目を合わせられない。

「高木……」

横目でちらりと呼びかけに応えると、その視線に吸いこまれた。
見つめ合う。思考なんて、存在しない。
自然に閉じた、ふたりの瞼。触れたくちびるの感触に、高木の心がふるえた。

好きだった。ずっと、ずっと好きだった。
伏せた高木の瞳から、涙がこぼれ落ちる。こんなに焦がれていたなんて――。
羽の止まるようなキスを繰り返し、椎ノ木は高木の額に額を押し付けた。

「ちゃんと確かめてね?」
「え……」
「俺のキスが、うまいかどうか」
「あ、」

あのカラオケのとき。言いかけた高木の言葉は、椎ノ木に飲み込まれた。
肉厚のくちびるに、翻弄される。感触は、体温を急上昇させる。
いつのまにか回された手が、舌の動きに合わせて高木の背中を弄る。

「……ん」

鼻に抜ける吐息をもらし、高木は恍惚に酔いしれた。わかってはいたけれど、こいつはテクニシャンだ。
水分を含んだリップ音を残し、椎ノ木は身体を引いた。蕩けそうな表情の高木を、覗き込む。

「どうだった?ほんとにうまかった?」
「ん……」

高木のくちびるはだらしなく開いたままだ。肯定の答えも、満足に伝えられない。

「高木、すんごい色っぽい。知らなかった……そんな顔するんだ?」

想定外の展開とふるえるような快感は、まるで麻酔のようだ。自分をコントロールできない。それで色っぽく見えているのなら、高木は本望だった。

「でも、俺のこと誘ってくれないんだ?」
「……え」
「もっと小悪魔なのかと思ってたなぁ」

無理だ。胸を焼き尽くした想いびとを前に、小悪魔になんてなれるものか。

「察してよ……」

高木は椎ノ木の胸に顔をうずめた。
トクントクンと、心臓の音。椎ノ木が、そばにいる。
この日何度目かわからない涙が、高木の頬を伝った。

「本気になってもいいから、抱かせてくれる?」

ささやく声は、高木の胸をしめつけた。
あの日自分が投げかけた心にもないひと言を、心の中で反芻する。
本気にならないから――そんなの、到底無理だった。そばに居ながら想いに蓋をするなんて、無理だった。

好きだ……。込み上げてくる止まらない想いが、喉を塞ぐ。
かろうじて出た声は、名前を呼んだ。

「しい……のき……」

顔を上げると、強い力で抱きすくめられた。
高木はギュッと目を閉じる。幸せすぎて、胸が痛い。

ほんのわずか指が触れるだけで、身体に電流が走る。心に引きずられるように、身体が昇りつめてゆく。触れ合うお互いの肌が吸い付く。身体がまるで飢えたように、椎ノ木の指を受け入れた。

どうして――。閉じた瞼の裏、コマ送りでよぎる過去のシーンを、高木は呆然と見送っていた。
目を閉じていれば、誰でも同じだった。指に応える身体は、いつだってそれなりに相手を満足させる反応を示した。
だけど、全くちがう。今だって、視界は遮断しているというのに。
椎ノ木のにおいが、息づかいが、ついさっきまで抱いていた行き場のない切なさとないまぜになって、興奮をあおる。

「ちょ……そんなんされると動かせないよ」
「だ……って、しかたな……っ」

意思に反して高木の身体は、椎ノ木を取り込もうと締めつける。
求めすぎて、息苦しい。高木は酸素を欲して喘いだ。それすらも快感にかわるなんて。
苦しいのは好きじゃない。どちらかと言えば嗜虐趣味だったはずだ。
椎ノ木の前だけだ。未知の自分が、愛しさをもて余してもがいていた。

余裕なんて、まったくなかった。この日のために、何度も自分を貶めてきたというのに。
椎ノ木の背中にしがみつきながら、高木は突き抜けるような快感に意識を飛ばした。


やさしい指が、頬を撫でる。
白くやわらかな世界の中で、高木は目を開けた。

「あ、起きた」

恋焦がれた大切な友人が、安心したように微笑んでいる。

「……おはよ?」

時間の感覚がまったくない。
一瞬の現実だったような気もするし、長い夢だったような気もする。

「って言っても、15分くらいだけどね。おはよ、高木」

名前を呼ぶ椎ノ木の声が、鼓膜をくすぐる。
その甘い空気に現実だったことを悟り、高木は安堵の息をついた。

「だいじょぶ?つらい?」
「ん……平気」

身体はなんともなかった。それに関してだけは、経験を重ねた甲斐があったってことなのかな。高木は自嘲の笑みを浮かべる。
高木の心情を察してか、椎ノ木はなだめるようにまた頬をなでた。

「まぁでも、俺も男はじめてじゃないし」
「え……?」
「酔っ払っててさ」
「ええっ」

からりと言ってのけた椎ノ木に、開いた口が塞がらない。

「……女抱くのとはわけがちがうんじゃなかったの?」

ようやく気を取り直して、切り込む。

「抱かれるのと抱くのじゃ、ちがうでしょー?」
「う……」

正論のような、屁理屈のような……。
したり顔の椎ノ木。高木はため息をつく。

「お前はそういう奴だったよ。この遊び人!」
「えーっ高木も人のこと言えないでしょお?あんなに仲良く遊んでたじゃーん」

それもそうだ。おかしくなって、高木はクスクス笑った。

「ぶっちゃけさ、俺ねー」

椎ノ木が高木の頭を撫でる。共感をもとめるときのくせだ。

「高木とはどっちだっていいのよ。友達でも、恋人でも」
「うん……」

気持ちの所在を知っていると、こんなにも心穏やかだ。
高木は落ち着いて、次の言葉を待った。

「ただ、そばにいてくれたらさ」
「椎ノ木、」
「高木以外に、考えられないんだよね。隣に誰かがいるの」
「……っ」

抑えきれない何かが、高木の喉元に込み上げる。
あふれ出してしまわないよう、高木は愛しいひとにしがみついた。

「たぶん俺の方が、高木のこと見てた」
「椎ノ木……」
「いなくならないでね?」
「……うん」

言いたいことはたくさんあった。けれど、言葉なんかいらない。
ずっとそこにいるだけでいい。



*****

「研修会?」
「そう、研修会ていうか、勉強会?」
「ふうん。そんなのあるんだ」

夜が明けると、コーヒーを1杯だけ飲んで、椎ノ木は帰り支度をはじめた。
聞けば、仕事の予定があるとのこと。自営業は大変だなぁと、ぼんやりする頭で高木は考えた。

「なんとかマイスターとかさ、ソムリエとかさ、そんなのあるじゃん?」
「それの漬物版?」
「そうそう。そんなとこ」

椎ノ木はカラカラと笑いながら、スニーカーを履いた。
送っていこうと玄関ドアを後ろ手で閉めながら、高木は昨日を思い出していた。
あの時無我夢中で履いたサンダルは、玄関に揃えてある。今日は落ち着いた気持ちでデッキシューズに足を通すことができた。

「こうやって俺は、どんどん漬物くさくなってくんだよねぇ」

振り返った椎ノ木が、かすかに眉を寄せた。気づかないふりで、高木は微笑む。

「大丈夫、香水くさい俺が中和してあげるから!」
「それ、中和になってないしー」

漬物くさくても、何くさくても構わない。椎ノ木は椎ノ木だ。進む道が分かれてしまった今だからこそ、寄り添う気持ちが大切だ。

「なるってばー。いってらっしゃい、次期社長!」

高木の声に笑い崩れながら、椎ノ木は大きく手を振った。これでよかったんだ。
幸せに満たされる胸のうち、そういえば、と気づく。そういえば、ちゃんと好きだって言ってない。もちろん言われてもいない。それなのに、こんなに伝わっている実感がある。
角を曲がる背中を見送り、高木は空を仰いだ。さすがに朝の空に、星はない。
でも、大丈夫。たとえ見えなくても、ずっとそこに居るのだから。



END


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