星はすべてを語らない。

04



学生時代に足しげく通ったバーのカウンターで、高木は頬杖をついていた。
目の前には、琥珀色の液体。美しくカットされた氷が、きらきらとライトを反射している。

「それなりにお年を召されたってわけですね」

目の前でグラスを磨いているバーテンが、丁寧な口調で皮肉を言う。ぴんと伸びた背筋と撫で付けられた黒髪が、彼のオンタイムの象徴だ。

「会社員だからね、おじさん臭くもなるよ」

話題は飲み物のオーダーのことだ。バーボンのロック。高木にしては珍しい、最近覚えた大人の味だった。

「嫌なことでもありましたか?」
「うーん、まぁね」

視線を合わせないように、さらりと質問をする。バーテンらしいテクニックだ。
仕事中のダイゴに語る話でもない、と曖昧に答えを濁した。

「話聞くだけなら、外に呼び出してくれたらよかったのに……」

高木の思惑を察したのだろう、ダイゴはちらりと目線をよこし、くだけた口調でつぶやいた。

「ありがと。じゃあ終わるまで待っててもいい?」

ダイゴの申し出に、高木は素直に甘えた。

バーの閉店は、午前2時。高木とダイゴは、深夜営業のコーヒーショップに入った。そういう街なので、同性同士のカップルの待ち合わせに使われることも多い店だ。
カウンターに並ぶ二人。きっと自分たちもカップルに見えるのだろうけれど、高木は周りの目には全く興味がなかった。

「……きょうちゃんの好きなひとって、ノンケなの?」

カフェオレボウルを両手で包むようにして暖を取りながら、ダイゴが訊ねた。

「急に来たね」
「だって、その人の話をしにきたんでしょ?」
「まぁ、そうだけど」
「で、どうなの?」

バーテンモードのときとは違って、回りくどい言い方はしない。ダイゴのこういう性格を、高木は気に入っていた。
好きなひと。他人の口から聞くと、甘酸っぱい言葉だ。
椎ノ木の顔を思い浮かべながら、高木は指先で胸の辺りを掻いた。

「……ノンケだよ。ってか、俺も本当はノンケだし」
「そりゃないでしょ、きょうちゃん」

ダイゴが笑い崩れた。
自分は男を好きになる人種ではない。そんなに可笑しいことを言ったつもりはない。高木は腑に落ちない顔をした。

「マジで言ってるの?じゃあ、きょうちゃんはなんで僕と寝るの?」
「……なんでだろ」

好きにはなれないけれど、寝ることはできる。
椎ノ木を好きになったのは、それが椎ノ木だったからだ。

「好きなひとと僕って、似てる?」
「全然」
「うわぁ、即答」

手を叩いて笑うダイゴに、高木は真顔で向き合っている。不毛な問答を振り返りながら。

高木が男と寝るようになった理由は、やはり椎ノ木に他ならない。何かの間違いで、もし行為に至ることができた場合、経験豊富な相手を前に、興醒めな態度を見せたくなかった。少しでも慣れておこうとか、最初はそんな気持ちだった気がする。

「彼のために後ろ慣らしとくとか、そんな感じなのかなぁ。だったらあんまり感心しないなぁ」

ひとしきり笑ったくせに、ダイゴは急に真面目な顔になり、的を射た回答をつぶやいた。高木のほうに身を乗り出し、説教くさく語り始める。

「それだけの想いがあるなら、さっさと玉砕しちゃえば?すっきりさせないと、きょうちゃんの人生が無駄になっちゃう」
「無駄にはならないから、大丈夫」

椎ノ木と過ごす日々は、たとえ恋人のポジションに立てないとしても無駄ではなかった。共有する時間は幸せだし、必要とされている実感もある。
足りないだけで、無駄ではない。

「僕、もうきょうちゃんとは寝ない」

唐突に、ダイゴが言い放った。
驚きを隠せない高木は、呆気にとられてダイゴを凝視した。

「無理にやることないよ。たまってんだったら、一人でしな?」
「別にそんな無理にとか」
「いーや、無理してるね。大体こっちに来ること自体、きょうちゃんには無理なんじゃないの?」

こっち。ゲイだのバイだのの世界のことだ。
飛び込むことに、ためらいはなかった。ほとんど無我夢中だったのだ。

「そんなこと言ったって、もう玉砕してるも同然なんだけど」

表情だけで拒絶されたあの夜。思い出したくもないけれど、忘れられやしない。

「同然、でしょ?ちゃんと好きだって言った?」
「言ってない」

好きだ、なんて。
高木の瞳が揺れる。

「じゃあ、なんて言ったの?」

好きだ、なんて言えるわけがない。

「……本気にならないから抱いて、って言った」
「ばっかじゃないの。そんなんじゃ誰だってお断りだよ。きょうちゃん、なに考えてんの」

心底呆れたといった様子のダイゴ。言い訳しようと思えばいくらでもできた。けれど高木はそうはしなかった。

「……だね。なにやってんだろう」
「とにかくちゃんと告白しなね?ホントに拒否られたら、また話聞いてあげるから」

ダイゴには突き放すつもりなどないのだ。優しい拒絶に、高木はかすかに笑ってうなずいた。



*****

新人歓迎会という行事は、どこも同じようなものなのだろうか。歓迎されるべき立場の新人が、余興をさせられ、飲みたくもない酒を強要される。
これでは学生と変わらない。椎ノ木はため息をつき、支えていた新入社員の身体を抱えなおした。

「ねぇ、もうちょっとしゃんと歩けない?」

千鳥足の新人からの返答はない。自力で歩いているだけましだと思おう。
二次会の店を出たころには、「御曹司なんすよね、以後お見知りおきを!」などと調子の良いことを言っていたが、それを知っていてこの状況だ。酔いが醒めたら真っ青だろうな。椎ノ木は胸のうちでクスリと笑った。
御曹司であることを隠すつもりはないし、一目置かれる、悪く言えば距離を置かれることも、仕方がないと思う。いずれ着くだろう自分のポジションに、特に執着もしていなければ反発も感じたことはなかった。

椎ノ木自身は酒好きなので、こういう宴会は率先して場の空気になじもうとするけれど、皆が皆そうではない。
役職が上がったら、粛正が必要だな。考えながら、重たい連れを引きずるように週末の繁華街を歩いていた。

たしか、この通りを抜けるとタクシーが拾いやすかったはずだ。ネオンの色みが変わるけれど、近道をしよう。
いわゆるホテル街を、男二人で歩く。通常なら後ろめたさが伴うものだろうけれど、連れているのはどう見ても酔っ払いだ。全く頓着する様子もなく、椎ノ木は前を向いて進んだ。
川沿いの道まで出ると、すぐにランプを点灯させたタクシーがやってきた。週末、この通りを流している運転手は多い。後部座席に押し込んだ新人が、軽く頭を下げた。意識はあるし、きちんと住所も言えていた。

「すみません、お願いしまーす」

運転手に一言声をかけると、軽い会釈の後、ドアがバタンと閉まった。この界隈を流しているのだから、酔っ払いには慣れているのだろう。

ふう、とひと息つく。飲み足りない。
酒豪の椎ノ木が介抱役に回るのは、いつものことだ。
そして、いつもなら……。
ポケットに伸びかけた手を止め、寒さに赤くなった鼻をこすった。
呼び出せば、あいつは来るだろう。いつだって、30分と待ったことはない。

川沿いの歩道。大人なら簡単に超えられる高さの木製の柵が、向こうの橋まで続いている。目の前を車は通るけれど、ひと気はない。ぽつりぽつりと点された街灯が、水面に映って揺れている。
高木には、あれから会っていなかった。面と向かって告白されたわけではない。本気にならないから抱いてくれ、だなんて。そっちの方が、よっぽど性質が悪い。
はっきりと拒絶したほうが良かったのだろうか。いや、そんなこと自分にはできやしない。椎ノ木は拳を握った。
受け入れることも、突き放すことも、できやしない。ただ高木を失うことだけが、怖かった。

高木を意識し始めたのは、いつだったのだろうか。
やはり、同じ立場でちがう集団を率いていたあの頃だったのかもしれない。
およそテニスなんてしそうにもない容姿で、プレイに集中していた他校の同級生。その存在は目立っていたけれど、まさかキャプテンになるとは。同じくキャプテンに指名された椎ノ木は、自分を棚に上げ、驚いた。
凛と通る声で、集合をかけていた高木。それが耳に入るたびに、ハッとした。
コートを離れると、高木とは行動パターンが限りなく似ていた。遊び歩くようになり、早い段階で意気投合した。

二人とも特定の恋人を作らないまま、卒業までコンビよろしく過ごした。そばに置いておきたいと思えるのは、椎ノ木にとって高木だけだった。高木もそう思ってくれている実感はあった。
会いたいと思えば、相手も会いたいと思っている。言葉にしなくても、気持ちは通じていた。
高木が自分の気持ちを自覚するまでは、それで上手くいっていたのだ。椎ノ木は、それ以上を望んではいなかったのだから。

揺れる光は、自分の心。
椎ノ木はぎゅっと目を瞑り、胸の小波を消そうとした。
重ならない未来。どうやったって、いつかは失ってしまうのだろう。頼りない糸でもいい。少しでも長くつなぎとめておきたかった。

やるせない気持ちで、空を仰ぐ。一際明るい一等星が、今夜も輝いていた。
何万光年離れていたって、いつもそこにある。遠くて近い。
ここで思いをめぐらせていても仕方がない。たまにはひとりで飲むのもいいかもしれない。椎ノ木は、元来た道を戻り始めた。


*****

週末になると飲み会が多い。それは学生のころから変わっていない。コミュニケーションを取りたい相手と杯を酌み交わすという行為は、成人の義務なのではないかとさえ思えてくる。
4月の夜風は、まだ冷たい。上司の一声で急きょ行われた飲み会の帰り道。高木はトレンチコートの襟を寄せた。
二次会になだれ込む気分ではなかった。週末になれば、日付の変わる辺りで携帯が着信を知らせてくるのは学生のころからのルーティンだった。それゆえの喪失感に、週末になるたび、高木は目眩がしそうだった。

あれから3週間。椎ノ木からの連絡はない。避けられる原因を作ったのは高木の方だ。もちろん自分からなんて、連絡できなかった。
繁華街の電飾は、人の心を映し出す。楽しいときには浮かれた色に、憂鬱なときには空々しく。
このまま帰っても、鳴らない携帯を手に、ぐるぐる考えてしまうばかりだ。なじみのバーに寄ろうと、高木は方向転換をした。

「あれ、高木く……ん?」

背後からかけられた声に、振り返る。カラオケ店の明るい電灯を背負い、白髪交じりの男が立っていた。
まず目に飛び込んできたのは、よく磨かれた革靴。風にはためいているコートは、裏地の柄で一目でわかるブランドのものだ。中に着ているスーツも仕立てのよいものであることを、高木は知っている。
口元に穏やかな笑みを浮かべているいかにもな紳士は、いつかの大口契約の相手だった。大手百貨店の美容部門を取り仕切っている川辺(かわべ)というこの男は、家庭持ちでありながら男色家だと噂されている。

「こんなところで会うなんて、奇遇ですね。君も接待の帰り?」
「あ、僕は部署の飲み会で……」
「そうですか。二次会には行かなかった?」
「はい」

丁寧な口調は、ビジネスのときと全く同じだ。
ほんのりと回った酔いを押しこめ、高木も慎重に答えを返した。

「時間があるのなら、少し飲んで行きませんか?」
「え……」

柔和に細められた瞳には力があった。権力者が必ず持っている、ノーと言わせない力が。
川辺はしっかりとした足取りで、喧騒を避けた裏路地の寿司屋に入った。間口は狭く、隠れ家的店舗といった風情だ。遊び尽くした街なのに、こんなところにこんな店があるということを、高木は知らなかった。

「なんでも好きなものを頼むといいよ」

カウンターに向かって隣り合わせに座り、川辺はいくらかくだけた話し方でそう言った。

「すみません。こういうところは慣れていないので、お任せしてもいいですか?」
「ははっ、君は正直だね。まぁこれからだものね」

大将に、お任せで、と告げると、川辺は高木に視線を合わせた。

「二次会なら、そんなに空腹じゃないでしょう?こういうところはガツガツ食べるところじゃないからね。飢えた若い人を連れてこれるほど、僕も太っ腹じゃない」

笑いながら、川辺は高木のグラスにビールを注いだ。

食べなれた回転寿司のネタとは明らかにちがう、歯ごたえと甘みにいちいちうなりながら、高木は川辺の話に相槌を打っていた。
自分の話をすることには、慎重にならざるをえなかった。一介のビジネスの相手に、ここまでしてくれるものだろうか。朴訥な田渕にすら見抜かれた色仕掛けの相手だ。どこかに下心が見えはしないかと、高木は気を張っていた。

「ああ、うまかった。お会計するから、先に出てて」
「すみません。ごちそうさまでした」

最後まで紳士然と財布を取り出す川辺に、高木は恐縮して頭を下げた。この人が上司だったら、さぞ部下に人気があるだろう。男色の噂がなければ、の話だけれど。
店を出てきた川辺は、高木を見て薄く笑うと、ゆっくりと歩き始めた。この紳士のどこに、自分はあのにおいを嗅ぎつけたのだろう。あの契約の日には、川辺がそうだとは知らなかった。
柔らかすぎる物腰だけだったのかもしれない。ただそれだけのことで、お仲間がわかるようになってしまったなんて。勢いだけで飛び込んで、どっぷりはまってしまったものだ。高木の顔に、自嘲の笑みが浮かぶ。

「少し歩いてタクシーを拾おうか」
「はい」

このまま帰してもらえるものだと、このときの高木は信じて疑わなかった。一歩前を歩く川辺からは、誘うような空気などまるで感じなかったのだ。

「近道していこうか」

寿司屋ですすめられた日本酒が、高木の思考をうすぼんやりとさせていた。川辺の背中を追って、ためらいなく足を向ける。

「え……」

気がついたら、通りの雰囲気が変わっていた。
いわゆるホテル街。酔いに火照っていた身体が、急速に冷えた。

「……近道なんだよ、知らなかった?」

川辺の声が、幾分湿ってきたように感じる。振り返ったその表情に、高木は声を失った。そこに紳士はもういない。

「どうしたの?酔っちゃった?……休んでいく?」

じめっとした声が耳に入ると同時に、肩を抱かれた。
身体中が総気立つ感覚。この男に一瞬でも身を任せても構わないと思った自分が、信じられない。

「い……いえ……」

震える身体が、ようやくしぼり出した声をかすれさせる。
硬くなった高木に、川辺は舐めるような視線をよこした。

「だって君、そうなんでしょ?」

川辺から、柔和な態度が消えた。力ずくでどうこうしようというつもりはないのだろうけれど、まとう空気に威圧感がある。

「ねぇ……」

肩にかかる手に、力がこめられる。
嫌だ……!

「……っ」

高木はとっさに身をよじり、かろうじて動く足で一歩あとずさった。
これまでの自分ならば、流れに身を任せただろう。
ダイゴの言葉が頭をよぎる。

『僕、もうきょうちゃんとは寝ない』

想いびとに何も伝えないままに、身体だけどんどん染まっていく自分。それを止めてくれようとした大切な友人だ。
ここで飲み込まれたらダメだ。全てが無になってしまう。
椎ノ木に、伝えたい言葉がある。それを口にするまでは、自棄になってはならない。

「どうしたの。こっちにおいで?」

爬虫類のような眼が、暗闇に光った。舌舐めずりを見せつけるかのように、川辺のくちびるは薄く開いている。
高木の身体に震えが走った。それは、恐怖というよりも嫌悪感だった。

「や……っ」

再び肩に伸びてきた手を、払いのけようとしたときだった。

「高木……?」

最も聞きたくて、最も聞きたくなかった声が、高木を呼んだ。
高木の手が止まり、肩には強引な手が置かれる。
こんな場面なんて、見られたくはなかった。顔を上げられない。
でも、顔を見るまでもない。寸前まで高木の頭を占めていた相手だ。

「何やって……」

怪訝そうな椎ノ木は、途中で言葉を止めた。状況を察したに違いなかった。

「高木?」

親しげに呼びかける椎ノ木に、川辺の手が離れた。

「帰り、あっちだろ?」

この場に不自然な軽さで、椎ノ木は高木の手を取り、自分の方へ引きよせた。
事態が飲み込めないでいる高木は、されるがままになっている。

「すみません、友人がご迷惑おかけしたみたいで。上司の方ですよね?こいつ、酒弱くって……」
「いや……」

口ごもる川辺を遮るように、椎ノ木は高木の肩を抱いた。

「僕、慣れてるんで送っていきますね」

有無を言わせない強い声だった。普段の間延びした椎ノ木のしゃべり方からは、想像もつかない。

「あ、ああ……」

呆然、といった態の川辺をひとりネオンの中に残し、連行されるように高木は歩き出した。



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