Kylie's Cafe

01



クライアントとの打ち合わせが、長引いてしまった。
今日の昼休みは30分しかない。から揚げ定食が食いたかったのに。
俺は、昼食抜きで午後の勤務を乗り切れる体質じゃない。朝だって、何かしら固形物を摂ってから出勤する。
食事は大切だ。
その質はどうであれ、何かを摂取するということが。
この時間、社員食堂は意外と混雑する。俺と同じように時間のない人間が、駆け込みでやってくるからなのだろう。

「……暑いな」

7月後半の陽射しが、半そでのワイシャツから出ている部分の肌を刺す。
クールビズとは言うけれど、ネクタイの有る無しがそんなに体感温度に影響するものなのだろうか。どうせなら、短パン可にしてくれたらいいのに。
到底無理な想像を脳内に繰り広げながら、会社の向かいのビルを目指す。
1階が、コーヒーショップになっている。
『STOREBUCKS COFFEE』の文字を見上げながら、その立地に感謝した。
入社当時から、今日みたいに時間のない日には、重宝させてもらっている。
ガラス扉から店内をのぞき見て、失敗したなと思った。行列ができている。
これから店を変える時間もないと判断し、しぶしぶ中に入った。

カウンターの中を見れば、混雑の原因は一目瞭然。レジ打ち担当が、一人しかいない。
バイトに急な欠員でも出たのだろうか。
レジ担当の女の子は忙しい中でも笑顔で応対しているし、動きも機敏にがんばっている。イラついたって、仕方がない。
レジ上方にあるメニュー表を眺め、何にしようかと考えているふりをする。
ふり、と言ったのは、俺が注文するものなんて、いつも決まっているからだ。
俺の前にはあと二人。
ふりにも飽き、視線をさまよわせていたら、レジ横の引き戸がガラリと開いた。

「いらっしゃいませー」

中から出てきたのは、小柄な男性店員だった。が、この店のトレードマークである緑のエプロンをつけていない。
腕まくりした、白いシャツ。パーマのかかった茶色い髪。場慣れした笑顔に、スタッフの中では立場が上なのだろうと予測がついた。

なんとなく、彼の動きを目で追ってしまう。
ないと思っていた緑のエプロンをどこからか持ち出し、レジの陰ですばやく身に着けている。かと思えば、彼はさっとメニュー表を持ち出し、カウンターの外に出てきた。

じっと見ていたので、目が合ってしまった。反らす暇もなく、その瞳に囚われる。
なにか有無を言わせない圧力みたいなものを感じた。

「お待ちの間に、ご覧になりますか?」

差し出されたメニュー表。すばらしく模範的な笑顔付きだった。

「あ、どうも……」

素直に受け取り、今度は手元に視線を落とした。
俺の後ろの客にメニューを渡し終えると、彼はさっそうとレジについた。

無事にいつもどおりの注文をすませ、赤ランプの下で待機する。
毎度のことだけれど、自分の注文したものを「今作っています」と声高に披露されるのは、気恥ずかしい。
混雑していたわりに、座席は空いていた。テイクアウトの客が多かったのかもしれない。
通りに面したカウンター席に好んで座ることが多いのだけれど、今日は空いていない。
仕方なく、二人がけのソファー席にトレイを置いた。

「ふぅ」

やっとランチタイムだ。あと15分か。余裕だな。
サンドイッチの包装をピリリと破る。具だくさんで、俺好みだ。ドリンクは、いつも同じもの。夏はアイス、寒くなるとホットの、キャラメル系のコーヒーだ。
レジでは季節限定のものを勧められることが多いけれど、俺はそれにホイホイと飛びつくようなミーハーな人種ではない。
いつものコーヒーを、ストローで吸い上げ、いつもの味に安堵する。
きちんと整った日常を、俺は愛してやまない。

あと10分。腕時計に目をやり、時間を確認してから視線を上げた。
ふと目に入った、白。

「……」

レジ前に、さっきの男性店員が立っている。
また緑のエプロンを外している。彼が客としてそこにいるのだと推察できた。
珍しい光景だったが、不躾に眺めているのも申し訳ないので、手元に視線を戻す。

つつましい音量で、軽快な笑い声が聞こえた。
しかし、買い物をすませたらしい彼がこちらにやってくることはなかった。
バックヤードで昼食かな。さっき出てきた、引き戸の向こう。

「……ごちそうさま」

あと5分。周りに聞こえない程度につぶやき、席を立った。
トレイを片付けようと、足を踏み出す。
と。
目の前を横切る影。
茶色い頭は、俺の鼻先の高さくらいまでしかなかった。
彼が店外に出て行くと、腕まくりした白シャツが、キリリと陽射しを反射した。

休憩……タバコかな。
どちらかと言うと柔らかい印象の彼に、紫煙がしっくりこない。
あの風貌で、どんなふうにタバコをくわえるのだろう。
似合わないところを、見てみたい。
どんな趣味だよ、と突っ込まずにはいられなかったけれど、単純に興味がわいた。



*****

急ぎのときにしか利用していなかったストバに、週2で通うようになった。
やはり彼はチーフ的立場のようで、たまに笑顔で指示を出している姿を目にした。
入社当時から5年、これまで存在に気づかなかったけれど、なぜだろうか。
こんなに俺の目に付く人物も、珍しいのだが。
彼の忙しく立ち働く姿に満足し、いつものコーヒーをすする。
今日は雨が降っていて、エアコンのきいた室内は少し冷える。ホットの気分だった。

「それ、僕も好きなんですよ」

カップをトレイに置いたところで、後ろから声をかけられた。
振り返るまでもなく、気づけば彼がそばに立っていて、こちらに微笑みを向けていた。

「いつもそれですよね?」
「あ、……まぁ、そうですね」

言葉を濁したのは、少し恥ずかしかったから。
見られている。そして、覚えられている。

「やっぱり、定番っていいですね。これがメニューから消えることはないと思いますね」
「……そうですね。これ飲むと落ち着きます」
「いつもありがとうございます」

そう言って彼は、花が咲いたように微笑んだ。

彼と初めて言葉を交わしてからも、俺は同じペースで通い続けた。
レジにいたり、ドリンクを作っていたり、彼は日によって持ち場がちがうみたいだったけれど、盆明けには、目が合えば会釈しあうようになっていた。
その日もずいぶんと暑い日で、最高気温は体温を超えていた。
タオルハンカチで汗を拭う。
今日は間違いなくアイスだな、と考えながら、俺はドアの前に立った。

店内に入るとすぐ、目の前のレジにいた彼と目が合った。
俺はぎこちなく、彼は優雅に笑顔を交わし、カウンターを挟んで向かい合った。

「いつもの……と、このサンドイッチを」
「もしよろしければ、ですが、今日みたいな暑い日には、こちらもおすすめですよ?」
「え……」

珍しく注文とちがう商品を勧めてくる彼に、驚きを隠せない。
長く細い指の先には、氷仕立てのラインナップ。

「ほら、これなんかいつものと同じフレーバーですし、いかがですか?」
「キャラメル、フラペチーノ?」
「はい。身体の中から冷やせますよ、キャラメルフラペチーノ」
「……じゃあ、その……キャラメル……ふぇらぺ……あっいや、」

噛んだ、と思った直後、とんでもない噛み方をしたことに気づき、俺は慌てた。

「……っ」

彼が肩を震わせていた。
しまった……。ただでさえ上がっていた体温が、頬の部分だけさらに急上昇している。

「……すみません。キャラメルフラペチーノですね?ありがとうございます」

表情を作り直し、会計に入る彼。俺はまだ、視線を泳がせていた。

「では、あちらのランプの下でお待ちください。それと……」

おつりを手渡しながら彼がささやいた言葉に、今度は全身の温度が上がった。

「……たまってるんですね」
「っ、いや、そんなことは……」
「ふふっ」

まただ。可笑しそうに肩を震わせる彼。
そして。

「やだなぁ、ストレスですよ?」

今の俺は、やかんよろしく頭から湯気を出しているにちがいない。
正直、テイクアウトに変更してしまいたいくらいの恥ずかしさだった。
カウンター席に座ったのも間違いだった。ガラスに映る自分の姿を、直視できない。
俺は元来、下ネタとかそういったものを軽々しく口にするタイプではない。うっかりだったとは言え、彼にあれだけ笑われるなんて。
奥手な俺をからかうような口ぶりだった。
あはは、噛んじゃったよ、などと言って、笑い飛ばしてしまえたらよかったのに。

「……お客様?」

自己嫌悪に陥る俺の肩越しに、耳慣れた声が聞こえた。
ゆっくり振り返る。
エプロン姿の彼が、トレイを持って立っていた。

「こちら、新発売のブレンドです。香りがよくて僕オススメなんですけど、試飲いかがですか?」

ミニサイズの紙カップを片手に、にっこり。営業スマイルもここまでくるとさすがだな、と感心する。
レジでの言い間違いが、まだひっかかっている。
面と向かって会話するのは心臓に悪いが、断る理由もないので、受け取ろうと手を出した。

「……ちょっと待って。……はい、どうぞ」

トレイを持っていないほうの手で、彼は俺のトレイに器用にコースターを置き、紙カップをそこにのせた。流れるような所作だ。

「ありがとう……」

俺は、ぎこちなく微笑んだ。

試飲用のコーヒーは、たしかに香りがよかった。どこか果実のようで花のような、南国の芳香。
適温で出されているだろうそれを、口の中で転がす。
トレイにカップを戻そうとして、気がついた。

「あれ……」

よく見ると、不自然だった。
試飲にコースターは普通使わない。その証拠に、置いたミニサイズのカップとのバランスが悪い。
怪訝に思って、コースターをつまみあげた。

「……キリーズカフェ?」

そこには『Kylie’s Cafe』のロゴと、電話番号。ここはストバだし、090から始まる電話番号の店なんてない。
コースターを裏返してみた。

「……!」

そこには手書きの文字で、こう書かれていた。

――おいしいコーヒーでストレス解消しませんか?



彼の真意が、わからない。間違いなくこれは何かの誘いだ。
帰宅した一人暮らしの6畳間で、俺はコースターをためつすがめつしていた。

……コーヒーを飲みに来いってことなのか?

レジでの失敗がなければ、何も考えずに通話ボタンを押していただろう。
その程度には、彼に対する興味が膨らんでいた。

「せっかくもらったしなぁ」

最終的には、彼の勧めてくれるものにハズレはないし、と自分に言い聞かせ、俺は携帯電話を耳に当てた。

「もしもし?」

耳ざわりの良い声だ。
知らない番号からの着信だからか、うかがうような声色で、彼が出た。

「あの……。こないだのコースターの……」
「あ!……ほんとに?かけてくれたの?うれしいなぁ」

俺だとわかった途端に、声質が変わる。

「ストレス解消にコーヒーって……」
「……どう?」

ふふふ、と笑いながら言う彼が、いつの間にか敬語ではなくなっていることには、気づかなかった。

「どうって……」
「特別なの、淹れてあげるよ?」




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