真昼の月
17
「……忘れられなかったんだ」
「……」
何も言葉が出てこない。
「お前と見た光の道が忘れられなくて、満月の夜は必ず来てた。たまたま今日は特別きれいで、お前のこと思い出して、それで吸い込まれるみたいに海に入ってた」
そこで一旦言葉を切った広野は、視線を外して俯いた。
が、すぐに顔を上げた次の瞬間、叩きつけるように吐き出した。
「……違う、忘れられなかったのは、お前のことだよ。ずっと、後悔してたんだ。あのとき、何も言わずにお前を行かせてしまったことを……」
言いきった広野は、感情の昂りからか涙目になっていた。
言われていることの意味がうまく頭に入ってこない俺は、その潤んだ瞳を綺麗だなと見つめるだけだった。
そんな俺に構わず広野は叩きつけた。
信じられない言葉を。
「……俺は、お前が好きだったんだ。お前がゲイだって知る前から。カムアウトされたって、キスされたって、気持ち悪くなんかなかった」
「……マジで?」
やっと言葉が出たと思ったら、反射的に出たそんなセリフだった。あまりの衝撃に、それ以上何も言えない。
広野は、潤んだ瞳からこぼれ落ちる涙をぬぐいもしない。
俺を真っ直ぐに見つめる愛しい人が、俺を好きだと叫んでいる……。
この恋が叶うなんて、絶対あり得ないと思っていた。これは、夢なのか……?
夢うつつでふわふわ漂う俺の思考を、広野の叫びがガツンと現実に呼び戻す。
「どこにも行くなよ!俺を置いて行くな!……まだ好きなんだよ。悪いかよ。何年経っても未練タラタラなんだよっ」
夢じゃない。本当に広野が、俺を求めてくれている。
そう頭が把握すると、たまらなかった。
掴んだ広野の腕を強く引き、倒れこんできた身体を抱き締めた。
抱き締めた広野の身体は、見たとおり華奢というわけでもなく、服のまま海に浸かっているわりに温かかった。
広野は、俺の肩口に顔を埋めた。涙がシャツに染み込んでくる。
こんなに感情の揺れるこいつは見たことがない。
ごめんな、と思わず謝った。
「……なんで謝る?」
「……泣かせて、ごめん。俺はお前の笑った顔が好きだったのに……」
「……顔かよっ……てか過去形?」
顔を埋めたままで、不機嫌に抗議する広野。愛しさが溢れ出す。
やっと……。やっと、言える。
「……好きだよ。現在進行形で、好きだ。俺も広野のこと、忘れられなかった。ずっと好きだったんだ」
5年間溜め込んだ想いを、素直に言葉に乗せる。
抱き締めた身体が少し震えたのを感じながら、俺は続けた。
「……でも、俺はゲイだけどお前はノンケで……。叶うわけないって思ってた。好きだなんて、言うつもりはなかったんだ」
静かに聞いていた広野は、顔を埋めたまま湿った声で答えをくれた。
「……そういうの、関係なく、飯田が好きになってたんだ。曖昧なキスなんかされて、俺がどんだけ振り回されたか……」
拗ねたように言う広野に、あの時の幼稚な自分を責める気持ちになる。
「……それは、ごめん。あのときは本当に魔が差したというか……。っもちろん、お前のこと好きだったんだけど、気がついたらしてたっていうか……」
話しているうちに、少し落ち着いてきたのか、ようやく広野が顔を上げた。
涙に濡れた愛しい瞳に語りかける。
「満月だし、お前のこと思ってここに来てみたんだ」
「会いたかった……」
もう一度、今度は包むように緩く、抱き締めた。
「好きだ……拓海……」
夢にまでみた愛しい名前を呼び、そのままゆっくりと口づけを落とす。2度目のキスは、潮の味がした。
幾度かついばみ、お互いの唇を味わう。塩味だったそれが、甘く変わるまで。
「……どーする、これ?」
長いキスのあと、広野が照れ臭そうに言った。二人とも、下半身はびしょ濡れだ。
「……どっかで乾かすか?」
どこで、という考えもなしに言う。
家に帰った方が早くないかという広野に苦笑する。
「親になんて言うんだ?」
「てか、飯田はこっち帰ってきたって、どこ住んでんの?」
そう言えば、高校のときも、祖父宅にいることは話したことがなかった気がする。
じいちゃんち、と言えば広野はそれ以上深くは聞いてこなかった。
「……そっか。ま、とりあえず、上がろうぜ。うちに帰るにしても、このまま電車には乗れねーし」
「……だな。しばらく自然に乾かすか」
俺たちは、笑い合いながら、浜辺へ戻った。
コンクリートの階段に並んで腰掛け、二人海を眺める。
遠く水平線から続く光の道は、静かに波間に揺れている。
目を閉じると、引いては寄せる潮騒だけが俺たちを包んだ。
ふと思い出して、俺はカバンを漁った。
とっさに放り出して良かった。あのまま海に突入していたら、大惨事だった。
カバンから取り出したのは、ポータブルプレイヤー。選曲してから広野の耳に、イヤホンを片方入れた。
流れる曲はもちろん。
あの夏。君と聞いたあの曲。
「思い出すな……」
しみじみと広野が言う。
「あのときの気持ちが、戻ってくるみたいだ」
俺を見る広野の眼差しは、何ひとつ隠すことなく俺を好きだと訴えてくる。
そんな広野が愛しくて、俺は何も言葉にできない。
言葉のかわりに愛しい人を見つめ、ゆっくりと微笑んだ。
曲が終わり、俺はゆっくりと広野のイヤホンを外してやった。軽く耳に触れた手が、まだあいつを抱き締め足りないと言っている。
今日はダメだ。簡単に広野に欲望を抱ける俺とは違って、あいつはノンケなんだから……。
そんな自分を制するように、俺は海を見やって言った。
「……まだ月がきれいだな」
「またお前と見られて良かった」
海に視線を投げたまま、可憐に微笑んで広野は言った。
「もう勝手にいなくなるなよ」
「……うん」
「そばにいろよ。……物理的に無理でも、気持ちはそばにいてくれよ。……俺はもう」
広野がこっちを向いた。
「お前がいないなんて、無理」
訴えかける切なげな表情に、心臓が締め付けられるように鳴いた。
こいつがどんな思いでいたのか……。自分勝手に広野の前から消えた自分を呪った。
左手を、広野の右手に重ねる。
「……いるよ。ずっと。俺はお前のもんだ、拓海」
砂まじりの手を握り、指を絡ませ、見つめ合う。
ゆっくりと広野が瞳を閉じる。
どちらからともなく重ねた唇。軽く触れてそのまま留まった。
潮風に晒されて乾いたその感触に、潤いが欲しい。
一瞬離れた後で俺は舌を伸ばし、広野の唇を舐めた。
「い……いだ?」
初めての濡れた接触に、戸惑いの声を出す広野。
「ごめ……少しだけ……いい?」
少し湿らせた柔らかい唇をついばみながら、了承を求める。
今日は、ダメだと思いながらも抑えきれない。
「ん……いい……よ」
耳まで真っ赤にした広野が、途切れ途切れに囁いた。
「少しだけ……、な」
自制のためにもそう宣言し、そのまま深く口付けた。
「んっ……ふ……ぅ」
合間に漏れる広野の甘い吐息に、理性を持って行かれそうになる。
最初はされるがままだった広野も、雰囲気に飲まれてきたのか俺に応え始めた。
「は……ぁ……ん…」
絡まる舌。溢れる唾液。
これ以上は……、ヤバい。
俺は目をギュッと瞑り、広野の甘い唇を解放した。
「……はぁっ」
思わず息を吐き出す。
目を開けると、そこには真っ赤になって口を拭う広野の姿。色を隠しきれない瞳は潤んでいて。
「広野、ヤバいわ……」
「……っな!何がだよ」
「お前、色気ハンパねーわ」
「い、色気?」
「そ。ホントいろいろとヤバい。どっか入って服乾かすかとか思ってたけど、今日はこのまま帰ろう。理性もたねー」
正直に言う。
目の前でこれ以上ないほど真っ赤になった広野も、珍しく焦っている。
「だなっ。うん。帰ろうか……」
そう言ってから広野は一呼吸置き、幾分落ち着いた声で俺にこう尋ねた。
「その……飯田は……、俺とそういうことしたいんだよな?」
相変わらず直球だ。
変わらないこいつらしさに笑みがこぼれる。
「そうだよ?今日はガマンすっけど……。覚悟できるか?」
ノンケのお前が、簡単に飛び越えられる壁じゃない。分かってる。
「……覚悟ならできてる。5年間ナメんな」
嬉しい答えがふてぶてしく返ってきた。
終電を逃すほど時間をつぶした俺たちは、少し開けたところまで歩くことにした。
夏の夜道を歩けば、ずぶ濡れだった服もそれなりに乾いてきた。
途中のコンビニで飲み物を買い、少し休憩してからタクシーを拾った。
シートを濡らさないようビニール袋の上に座り、行き先を告げると、タクシーはゆっくりと発車した。
車内では無言で、お互い流れゆく景色を見ていた。
深夜の住宅街は、消灯した家が多く、街灯の灯りだけがポツポツ続く。
広野を先に降ろし、俺は車内に残った。
「毎日連絡するな。……正成」
そう照れ臭そうに言ってから、広野は手を振った。
祖父宅に帰り、祖父を起こさないよう自室に上がる。
うるさいからとりあえず風呂は朝にしよう、そう考えながら窓辺に立った。
もうすぐ夜明けだ。
白みかけた空。
そのまま俺は、徐々に変化してゆくグラデーションを堪能した。
「……正成」
と。最後にあいつが呼んだ俺の名前が、耳に残っている。
夜遊びに逃げるしかなかった「ナリ」でもなく。
薄っぺらい仮面を貼り付けた「飯田」でもない。
俺は新しく生まれ変わったんだ……。
「拓海……」
愛しい人の名前は、呼ぶだけでお互いの心を動かす魔法の言葉。
次に会うときは真っ先にその名を呼ぼう。心の底から、お前が大切だと伝わるように。
この先、俺たちにはどんな未来が待っているのだろう。
クラスメイトだったころのように、毎日会える関係ではないけれど。
――心は繋がってる。
そう思うだけで、どんな距離も飛び越えてゆける気がした。
エピローグ
昇る太陽に、あいつを思う。
いつでも真っ直ぐな広野は、まるでこの太陽みたいだ。
何にも影響されず、流されず、地上を照らし続ける。
ならば俺は……。
月になりたい。
薄っぺらい真昼の月ではなく、太陽にも負けない光で燦々と海を照らす、満月に。
END
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