悪魔の合鍵
02
*****
受験を控えた高3の冬、学校は自由登校になり、教室に空席が目立ちはじめた。
推薦でそれなりの大学に進学を決めている俺は、勉強を理由に休む必要もなく、シンに会いたい気持ちと惰性だけで登校していた。
対して優等生のシンは、有名国立大を志望していて、さすがにピリピリした様子だった。
うまく決まれば、俺たちの大学はキャンパスこそ違うけれど、都内で同じ沿線。
これまでのように頻繁には無理だが、簡単に会うことができる距離だった。
「シン、今日図書館行く?」
「あー悪い。ちょっと集中したいから家帰って勉強するよ」
「そっか……。がんばれよ!」
「そんな顔すんなって……。またな」
カバンを肩に担いだシンが、俺の頭をひと撫でした。
今日も申し訳なさそうに教室をあとにする恋人を見送る。
最近、毎日がこんな感じだ。
勉強が忙しいのだろうと思い、なるべくシンの邪魔はしないよう気をつけている。
顔に出てしまうのはどうしようもなかったが、二人きりになりたいだとかそんなことは言えないでいた。
「……俺も帰ろ」
ひとりごとが無人の廊下に虚しく響く。
進学校の高3の冬。
それぞれが自分のことで手一杯なのは、仕方がない。
「フラれたんだったら俺と遊ぼうぜ、早瀬」
帰りかけた俺の背中に、いつの間にかじっとりとあいつの気配が忍び寄っていた。
「てめぇと遊ぶ時間なんかねぇよ」
「お前も推薦組だろ?暇なくせに無理すんなよ」
クツクツと笑うこいつも推薦組ってことだ。
木之本は策略家なだけあって、頭が良いらしい。
シンには及ばないものの、いつも成績優秀者に名を連ねていた。
「暇で死にそうだとしても、自主的にてめぇと遊ぶ気なんかねーから」
「くっ…。強がんなって。建前上は強引に連れて行ってやるから」
2年の間に随分口調も砕けた木之本は、俺の気持ちを見透かしたようにいやらしく笑った。
これまで、シンが部活の日には必ず木之本が顔を見せた。
来るとわかっているのだから、その気になれば避けることもできたのかもしれない。
シンには見せたことのない姿を、木之本には見られてきた。
未知の世界を何度も見せられてきた。
シンと会う機会が減ったこの頃は、確かに身体の疼きをもて余すことがあった。
凌辱に慣れた身体は、こいつにゆだねてしまえと訴えている。
だからと言って、こんな変態の強姦魔に自ら進んで身体を差し出すなんて……。
「るせぇ、俺は帰る!」
迷いを振り払うかのように、俺は叫んだ。
進める足を早め、階段を一気に駆け降りたところで、後ろから羽交い締めにされた。
「……ッ放せよ」
「声出すつもりか?誰か来たらどうする?お前も学習しねぇな」
耳元で囁く、悪魔。
「…ッ」
悔しさを滲ませて、後ろの木之本を振り返ると、頬と頬が触れた。
「おっと…、続きはいつものところでやろうぜ」
「……」
唇を噛む。
「ついてこいよ」
今度は先に立って歩きはじめる木之本。
どうして俺の足は、こいつに従ってしまうのだろう。
どうして俺の身体は、こいつに抗えないのだろう。
体育倉庫の古びた南京錠が、骨ばった木之本の指によってガチャリと施錠される。
マットの上に突き飛ばされた形で、ここに入ったものの、まだ特に拘束されているわけではない。
逃げようと思えば逃げられるのに……。
大の字になると、コンクリの天井に張りついた蛍光灯が目に入った。
1本切れているが、誰も交換に来たりはしないようだ。
シンを守りたい一心で始めた不本意な関係だったのに、当初のあの身を切り刻まれるような決意が、最近はぼやけてしまっているような気がしていた。
いや、気持ちではやはり、抵抗している。
好きでもない男に無理やり身体を開かされ、苦痛を与えられる。
シンを思う気持ちがあるからそれを嫌だと感じるのに、逆にその気持ちが支えになって苦痛に耐えられる。
なんという理不尽だろうか。
気づいたら、冷たい爬虫類のような目がこちらを見ていた。
近づいてくるでもなく、声を発するでもない。
「どうした?ヤれよ」
心の揺らぎを見透かさられた気がして、なんとなく気まずかった。
自棄ぎみに吐き捨てると、空気が揺れた。
「気味悪いな。まぁいい。今日も縛ってほしいのか?」
「……勝手にしろ」
「口が減らねぇな。ま、ド淫乱な早瀬くんは縛られたいってことなのか、それとも……」
ジリジリと近づいてくる悪魔のような男。
「縛られていたから抵抗できませんでしたって、言い訳がほしいのか?」
目だけで木之本を威嚇したが、ヤツには強がりにしか見えないだろう。
身体は屈しても、心は屈しない……。
そう誓って耐えてきたのに、こいつは心にまで侵食してこようとしている。
「全然うまく…ならねーなお前。縄師んとこへで…も、修行に行けよ」
切れる息の下、精一杯の強がりを吐くのも、もはやお約束だ。
いつもなら冷ややかに見ているはずの木之本が、今日は視界に入らない。
「もっと悦くなりたいから修行に行けって?淫乱だな」
色のついた声だけは耳に入る。
「……ッ…は」
後ろ手に縛られて突かれているので表情は見えないが、首筋から背中にかけて、荒い息が時折かかる。
「……んッ…んッ」
木之本の先端が中のイイところを引っかけながら出入りする。
その度に鼻から抜けるものは、間違いなく快感を漂わせている。
嫌だ、嫌だと頭では考えているのに……。
「あぁ……ッ」
頭と心と身体、全てがバラバラだ。
木之本は、いつもどおり丁寧な仕草で拘束を解いた。
珍しく今日は殴られなかったので、目に見える外傷はない。
「いつも横屋になんて言ってんだ、怪我」
傷つけた本人が気にすることかよ。
「……別に。絡まれてケンカしたとか」
「マジかよ。信じてんのか?あいつ」
「信じてるんだろ」
以前からアザや擦り傷に、シンは滅多に気づかなかった。
俺の身体にそんなに興味がないのかもしれない。
でもそんなことは、今はどうでもよかった。
ため息をつく。
どんなに怪我したって、やっぱりシンは気づかないだろう。
長いことシンに触れていない。
「……勉強忙しいって言われてんのか」
木之本が珍しく気遣うような口調になっている。
こいつに気遣われるとか、いよいよ俺もおしまいだな。
「当たり前だろ。時期が時期なんだし」
「家にいるんだろ、横屋」
「多分な」
「行ってみれば?」
「は……?」
「差し入れかなんか持ってさ。家くらい行ったことあんだろ?」
差し入れか……。渡して帰るだけなら、邪魔にはならないかもしれない。
ただ……。
「行ったことねぇんだよ、家」
「は……?」
意外だと顔に書いてある。
そりゃそうだろう。つき合って4年目になるのだから。
「俺んちで会うことはあったけど、シンの家はねぇよ」
言えば言うだけみじめになる気がした。
それは恋人としてどうなのかと、今になって考える。
「……なるほどな、それで…」
頭を抱えた俺に、つぶやいた木之本の声は耳に入らなかった。
「ま、とりあえず行ってみればいいんじゃねぇの?遠慮するような仲じゃないんだろ」
「ああ、それは……」
俺が訪ねて行ったとして、シンが拒絶することはないはずだ。
仮にも恋人、なんだから。
ひとつだけ引っ掛かることがあった。
「あんだけ別れろ別れろって言っておいて、変なヤツだな」
「気まぐれだ。気にするな」
それならそれで、気にすることでもないか。
*****
予想はしていたけれど、いざ目の前に立つと腰が引ける。
洋風のでかい門についている……チャイムというより呼び鈴?を、押しあぐねた状態で20分が経過した。
行くか戻るか、そろそろ決断しなければ、不審者として通報されてしまう。
「あら……その制服…、慎太郎のお友達?」
後ろから女性の声がした。
振り返ると、目鼻立ちのはっきりした40代くらいの美しい女性が笑顔で立っていた。
笑い方がシンに似ている。たぶん母親だろう。
「あ、はい。同級生で、早瀬夏輝と言います」
「慎太郎は帰ってると思うからどうぞ」
そう言って彼女は電子キーで重たい門を解錠した。
「私は裏に回るから、お庭のつき当たりにある玄関のチャイムを押してちょうだい。慎太郎が出てくると思うから。ゆっくりして行ってね」
「はい。ありがとうございます」
母親らしき女性に言われたように、きれいに手入れされた庭を抜け、ひとり重厚な玄関ドアの前に立った。
おそるおそるチャイムを押す。
カメラ付きのインターホンに、自分の姿が映るようポジションを取っていると、相手が出た。
「はい……」
「あ、俺…です、あの、差し入れ…をっ」
通話に出たのはやはりシンで、機械を通した会話に俺は無駄にどもってしまった。
「……待ってて」
シンはそれだけ言うと、通話を切った。
怒ってはいないけれど、決して喜んでいる風な声色じゃなかった。やはり突然来たのはまずかったかな……。
かすかに後悔のような気持ちが、胸をよぎった。
ギッと重たい音を立て、ドアが開いた。
顔を出したのはシンで、俺を見ると薄く笑った。
「どうした?急に……」
「あ、あのこれ、差し入れ!」
手に持っていた洋菓子店の紙袋を差し出す。
「あ、ああ。ありがとう」
受け取ったシンの笑顔が、やはり満開じゃないことに気づいた俺は、すぐに帰ることを決めた。
「じゃ、俺……」
そのときだった。
「シンー?どなた?」
シンの背後から、文字通り鈴の鳴るような声がした。
さっきの母親とは明らかに年齢の違う声。
パタパタとスリッパの音がする。
「あら、お友達だったの?」
そう言って現れたのは、雑誌やテレビに出てきても可笑しくないほどの美少女だった。
「ごめんなさい。私、お部屋で続きしてるわね。」
俺に軽く会釈して、立ち去る制服の後ろ姿。
あれは近くの女子校のものだ。
お嬢様学校として有名な……。
「あ、悪い!邪魔したな!」
そう言うのがやっとだった。
シンの返事を待たずに俺は、冬でも花のあふれる庭園を小走りにつき抜ける。
重たい門に手をかけたとき、また別の声がかけられた。
「あら、坊っちゃんのお友達ですね。今日は彼女さんも来てらっしゃるし、ゆっくりなさったらよかったのに……」
口ぶりから家政婦らしいことがわかる。庭の手入れをしているようだった。
あれは妹だ、と自分に言い聞かせる暇も与えられなかった。
よく考えてみれば、シンには弟がひとりいるだけで、姉妹などいなかったのだが。
「ありがとうございます。急ぐのでまた…」
門の開け閉めをして見送ってくれた家政婦の顔もろくに見ないまま、俺はシンの邸宅をあとにした。
シンは追いかけてもこなかった。