複数恋愛

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3章 記憶の中の土曜日(Side光)


また1本、電車が通過した。
長くなった前髪を、ホームを吹きぬけた一瞬の風が舞い上げてゆく。それを手ぐしで簡単に直しながら、ベンチの隣に座る人物に視線を移す。

「乗らなくてよかったの?」

きれい、と形容するべき微笑みを惜しげもなく俺に投げかけ、雅人がたずねた。

「うん。別にかまわない」

答えると、雅人はゆっくりと立ち上がり、いたって自然な仕草でブレザーのよれを直した。
濃いグリーンのブレザーに、臙脂と朱色が鮮やかなストライプ柄のネクタイ。細かい千鳥格子のスラックスは、ブレザーと同系色だ。
全体的に色素の薄い雅人には、この制服がよく似合っていた。
自分の学ランを見下ろす。
なんの変哲もない、ただの学ラン。なんの取り柄もなく、平凡な俺には、これがお似合いだと思う。

学校は違うが、最寄り駅が同じ俺たち。
俺は公立、雅人は私立の男子校。見かけることはあっても、話しかけることはしない、そんな生徒同士。
俺たちが仲良くなったのも、ここでの出会いがきっかけではなかった。



*****

高校に合格してからの俺は、たまに夜、家人が寝静まるのを待って、家を抜け出すようになった。
行き先は、夜の街。思春期に入るとすぐに、自分の特殊嗜好を自覚した俺は、早く街に出かけたくて仕方がなかった。
同性にしか、興味をもてない。
普通の恋愛ができない、ということは、思春期の男子にとっては大問題だ。身体にたまるものは、ひとりで解消することはできるけれども、心にたまった膿のようなものは、ひとりで消化することがどうしてもできなかった。

だれかに、聞いてほしい。
仲間がいることを実感しなければ、抱えるものの大きさに押しつぶされてしまいそうだった。
身体の欲を霧散しに行くというよりは、心を解放させるために、あのころの俺は夜の街をさまよっていた。
ゲイなんて人種は、本気で探せばいくらでもいるのだろうけれど、なかなかオープンに振る舞っているヤツはいない。夜の街でしかるべきところに足を運ぶ方が、手っ取り早いのだ。
かといって、高校生の身では、堂々と酒を扱う場所には入りづらい。
俺の常套手段は、ゲイの集まりやすいとされる界隈にある深夜営業のコーヒーショップで、通りを眺めながら相手を見つける、といったものだった。窓際で物欲しそうにしていれば、向こうから声をかけてくることもたまにあった。

出始めの頃は、緊張に震えながら席に座り、味のよくわからないコーヒーを飲んでいた。自分から声をかけることもままならず、ひたすら前に誰かが立つのを待った。「出ようか」と声をかけられても尚、相手の顔を見ることすらできなかった。ただ、今夜を無事通過することができれば、俺はこの街で生きていけるのだ、という思いだけで、全てをやりすごした。

そうしてはじめて触れた相手とは、1回きりでその後会うこともなかった。
考えてみれば、初めてで何も知らなかった俺は、前準備はおろか事後の処理までも相手任せだった。
そんな面倒なガキは、1回きりで十分だと思うのが普通だろう。二人の間には、何の感情もないのだから。

俺はこの街で着々と経験を積んだ。夜を経てゆくごとに顔をあげられるようになり、そのうちに物欲しそうなまなざしもおぼえた。
ただ、特に親しい相手は作らなかった。別れ際、あえて次の約束を取りつけることもしなかったし、連絡先を尋ねられると、のらりくらりとはぐらかした。この場所に依存していながら、根を生やすのが怖かったのだ。
常に浮き草のように漂い、その場かぎりの逢瀬で、身体の中にくすぶる炎を消火するだけ。それでいいと思っていた。
――あいつに出会うまでは。



*****

高2の春だった。
いつものようにコーヒーショップの窓際に座り、通りを眺めていた俺の目に止まった、言い争う二人の男の姿。
場所柄、間違いなく痴話喧嘩だろうと思い、しばらく横目で見ていた。まともに見るのは悪い気もしたし、何より面倒ごとに巻き込まれるのが嫌だった。

一人はサラリーマン風、ネクタイをきちんと締めたスーツ姿で、そのこなれ方からして若くはなさそうだった。もう一人は、ジーンズにスニーカーといった出で立ちの、俺とそう変わらない年齢に見えるやけに小綺麗な男だった。話している内容は聞こえないが、罵声を浴びせている様子が手に取るようにわかる。

突然、サラリーマンが若い男の胸ぐらをつかみ、その頬を張った。若い男はいきおいその場に倒れこみ、頬を押さえてうずくまる。
暴力に訴えられたにも関わらず、まるで抵抗する様子のないそいつに、俺は興味を持った。
相手をやり込めて気がすんだのか、サラリーマンは唾を吐き捨ててその場を立ち去る。後にはうずくまった若い男が残された。

遠巻きに眺めていた通行人も、やがて興味を失ったように彼の横を通りすぎてゆく。
いつまでも動かないそいつは、うずくまったその形のままで街に溶け込んでいて――。
俺は空のカップを手に持ち、立ち上がった。

「何年生?」

はじめてかけた言葉がそれだった。

今考えると、本当に妙なタイミングと、場所にそぐわない単語だ。
それでもそいつはうずくまったまま、顔を上げることなく「高2」と答えた。

「俺も」

ようやく上げられた小綺麗な顔。長い睫毛にうっすらと残った涙と、打たれて赤くなった頬が、よりその表情を艶めかせて見せていた。見上げる形になると、この綺麗な男に何か懇願されているような錯覚に陥る。
誘ってみたいな。
一晩かぎりのあれじゃなくて……、そう。

「ちょっとお茶でもどう?」

こんな感じかな。
気軽に応じてくれると良いのだけれど、と考えて、わざと古くさい台詞で笑いを誘った。
俺の意図をくみ取ったそいつが、ゆっくり立ち上がる。それから彼はうなずいて、困ったように笑った。
泣いてるみたいな、笑い方だった。

その晩俺たちは、本当にお茶をしながら、全く色気のない話をして別れた。修羅場になった理由は聞かなかったし、そいつも話そうとしなかった。
一晩で俺にわかったことは、そいつが雅人という名前で、通う高校の最寄り駅が一緒だってこと、それから、まれに見る聞き上手だということくらいだった。
柔らかな微笑をかすかに口元に残し、こちらの瞳をじっと見つめてくる。雅人にそうされると、話の続きをうながされているような気がしてきた。
自分のことを話すのはどちらかといえば苦手だったが、同じゲイの高校生ということもあってか、雅人を前にするとよどみなく言葉が口をついて出た。一晩で雅人は、俺の薄っぺらい17年間を、ほぼ知り尽くしたに違いない。

「なぁ、また会える?」

自然とそう口にしていた。

「もちろん。うれしい」

そう言って、花が咲いたように笑った雅人の顔は、今でも忘れられない。



*****

最寄り駅が同じ、ということも、俺たちにとっては都合が良かった。毎日放課後に待ち合わせて、駅のホームでひたすら話をした。
といっても、やはりしゃべるのはもっぱら俺のほうで、相槌を打つような雅人のまなざしに包まれたくて、一日中その時間を楽しみにしていた。

「雅人は?最近どう?」

前の週に、夜の街で出会った一晩限りの相手の話をした後で、たまには俺も、と質問を振った。

「うん?普通に幸せ。光がいるからね」

俺への好意を、出し惜しみすることなく伝えてくれる雅人。
表情を伺うと、何一つうしろめたさを含まない微笑み。その顔を見ながら、その言葉を聞くだけで……。
雅人がいれば、俺も幸せだ――そう思えた。

他人に語れば、不思議に思われるかもしれないけれど、俺と雅人はお互いに好意を持ってはいても、身体で交わろうとはしなかった。とは言っても、夜の街角で、人目をしのんで軽いキスをかわすことはあった。ただ、そのふれあいも、恋慕の情というよりは、友愛のそれに近いものだった。

漂ったままでも身体は夜の街になじんでいた。身体の渇きを持て余すことはない。
俺のすべてを理解してくれる友がいる。
心の渇きを感じることもなかった。



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