複数恋愛

06




4章 音のない月曜日(Side雅人)



――あいつが、俺のすべて。


そう思い始めたのは、俺が同居を言い出す少し前のことだった。



「何年生?」

公道で殴られてうずくまる、最高にかっこ悪い俺の頭上に、鈴のように澄んだ声が降り注いだ。街灯を背負った誰かの影が、見つめたアスファルトの上に伸びている。
熱い頬。きっと不恰好に腫れているだろう顔を晒したくなくて、俺はうつむいたままで答えた。

「高2」

簡潔にそう答えたのは、話しかけてきた鈴の音が、俺自身と変わらない年頃の持ち主を連想させたから。
無視してやり過ごすことをしなかったのは、その声で俺を呼んで欲しいと思ってしまったから。
「俺も」と返ってきた声に、微笑みを含んだ響きをとらえて、俺は顔を上げた。この声の持ち主になら、かっこ悪い俺を晒すのもありかな、と思ったんだ。

「ちょっとお茶でもどう?」

誘われて俺は、そんなつもりもなかったのに笑ってうなずいた。
文字通り、深夜営業のコーヒーショップでお茶を飲んだだけだった。
コーヒーのカップに口をつける合間に、鈴の音の持ち主は、流れるように自分自身について語ってくれた。
彼もまた、ゲイであること。
通う高校は、偶然にも俺のそれと最寄り駅が一緒であること。
週末の夜、家を抜け出してこの街によくいること。
――それから、この街では特に親しい人物をつくらないようにしていること。

そう言ったあとで彼は俺に、また会えるかと聞いた。そして俺は、なぜだか理由は分からないけれど、彼が垣根を取り除いて俺と向き合ってくれようとしていることを知った。

自然と言葉が口をついて出た。
うれしい、と。
これが光との出会い。

この街での出会いは、いつだって俺にとって駆け引きやスリルが伴うものだった。
一夜の相手を猛禽類のような目で探し、巧みな会話で相手を引き寄せ、追いすがられることがないように細心の注意を払って突き放す。たまに、あの晩のような失態をおかすことはあったが、あの時の相手のように激昂するタイプは初めてではなかった。

だから、あの時も参ってたわけじゃなかったんだ。一発殴らせて、そうすれば気がすんだところでお別れできると、むしろ進んで頬を差し出した。
周囲の目が気にならなかったと言えば嘘になるかもしれない。でも、あの場はそうやってやり過ごそうと考えていた。
かっこ悪い俺を目撃した人々は、お互い特に必要でもなければ関心もない、ただの通行人で。通り過ぎて痛みが引けば、あとは顔を上げて帰るだけだと、そう思っていた。

まさか手が伸ばされるとは思わなかった。
そして、その手を自分が取るとは……。

初対面の光と話していて、――あの日はほぼ光がしゃべっていたのだが――俺は不思議な心地よさに包まれていた。
こんな俺に、すべてを見せてくれようとしている。
企みも下心もない、クリアな瞳と澄んだ声が、自棄になっていた俺の心にしみた。
誰かに心を委ねられることで、自分の心が安定するということを、そのとき俺は初めて知った。

その日から光は、その名のとおり、俺にとっての光(ひかり)となった。



*****

不特定多数の相手と遊ぶのをやめた。
もちろんそれは光と出会ってからのことだったけれど、光と恋人関係になりたいと渇望することは、そのころの俺にはまだなかった。

学校帰りに駅で待ち合わせて同じ景色を見ながらただ話をするだけで、俺たちは幸せな空気に包まれたし、たまに夜の街角で恋人ごっこのキスをすれば、共犯めいたときめきに心が浮き立った。
それで満足していたし、それ以上は望まなかった。
――あの人が現れるまでは。

あの人――松崎礼二という男は、バーの経営をしている、いかにも昼間の仕事をしていない風貌の男で、人当たりの良い話し方やふと視線で追ってしまいたくなる仕草からも天性のプレイボーイであることが伺えた。
そんなプレイボーイのどこに光は強く惹かれたのだろう。初めはまったくわからなかった。
出会ったその日に全身が強く惹かれたのだと、熱っぽく語った光。うっとりと彼のことを思いだしながら、持って行かれそうなくらい惹かれたのだと。
それを聞いた俺は、動揺を必死に隠して光の背中を押したけれど。

「恋に落ちたんだね」

発した声がふるえていなかった自信は全くない。
ゼミの研修旅行という仕方のない用事ではあったけれど、あの日不在にしていたことを、あとになってから俺は激しく後悔した。

ふたりが付き合い始めたと聞いたときは、さすがに虚しさに途方に暮れた。
特定の相手を作らない光にとって、たとえ友人の域を出なくても、俺が一番特別な存在であることは揺るぎないと、たかをくくっていたからだ。俺と過ごした5年間が、不当に光に軽視されているように思えて、悔しくてたまらなかった。
その反面、どこかで俺は、光は必ず俺のところに帰ってくると思っていた。
第一印象のままに女性との遊びをやめる気配のない礼二さんと、時々やりきれなさに声を湿らせる光。そんな光をなぐさめながら、俺は彼が愛想をつかして別れるのも時間の問題だと考えていたのだ。

だけど、そんな考えは甘かった。
どんなに泣かされても、礼二さんと会ったあとの光は、言いようもないほど幸せそうな顔をしていて……。
こんなに心が躍る相手ははじめてだと、楽しくてしかたがないと、とけそうな笑顔で語られるたびに、俺は何かをあきらめざるを得なかった。



*****

尚宏と出会ったのも、よくできた偶然ではなく必然だったのかもしれない。
光と別行動をするようになった夜の街で、俺はホテルの前で泣いていた一人の男を拾った。
まるであの日の俺のように、人目もはばからず道端にうずくまり肩をふるわせていた、ふわふわ猫毛の小柄な男。自分を頼ってくれる存在を潜在意識の中で求めていた俺は、まるで捨て猫を見つけたかのようにその男に近づいた。

「どうしたの?こんなところで」

相手を怖がらせないように、声色に注意して声をかけた。
腕の中にうずめていた顔が、少しだけ上げられる。濡れた瞳はつぶらなアーモンドアイ。

「寂しくて……」

そうつぶやいた彼は、次の瞬間ハッと顔を上げ、うっかり言ってしまったというかのように口を押さえた。
その仕草がやはり動物じみていて、俺は思わずくすりと笑ってしまった。

「笑うなよ、へこんでるのに」

口をとがらせた表情に、やられた。

「俺でよければ、聞いてあげるよ」

彼が今しがた出てきたばかりのホテルにふたりで入り直し、一晩中話を聞いた。

槙尚宏(まきなおひろ)と名乗った彼は、その童顔に反して俺より2つ年上だった。
泣いていた原因はやはり交際相手。聞けば同性の上司で不倫の関係にあるという。
男女の不倫関係だったとしても、相手に本気になるとつらいだけなのに、ましてや男同士。そのつらさは想像に難くなかった。

会社員である尚宏の恋人は、彼の直属の上司。ゲイだと噂になっていた尚宏に、興味本位で近づき、うっかりはまってしまったパターンらしい。尚宏本人が、自嘲気味に話してくれた。
妻子持ちの恋人は、会っているときこそ優しく愛をささやいてくれるのだが、家庭のある身では限界がある。夜は泊まりで愛し合うこともできないし、休日は家族のために過ごすので、会うことができない。
当たり前なんだけど、わかってるんだけど、つらくて……と、ホテルの大きなベッドの端っこに腰掛けて、尚宏は泣いていた理由をぽつりぽつり話してくれた。

ソファに座り、それを聞いていた俺。
どうしようもなく庇護欲をくすぐられ、ごく自然な仕草で尚宏を抱きしめていた。

つらい不倫の恋。会いたくてもすぐに会うことは叶わない。
その隙間を俺がうめてやれるだろうか……と。そう考えながらも、それは逆で。
きっと、光のいなくなった心の隙間を尚宏にうめてもらおうとする俺のずるい心がそうさせたんだ。
気づいていながら気づかないふりをして、その時の俺は尚宏と付きあう事を決めた。
尚宏のほうも、不倫相手に与えられる寂しさを解消するすべが欲しかったのだろうか、付き合おう、と言った俺の言葉に、すぐにふたつ返事で了承をくれた。
こうして俺は尚宏と会うようになった。

礼二さんと光。俺と尚宏。
不思議な四角形が、きれいに成立した夜だった。



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