複数恋愛
10
6.落雷の金曜日(Side雅人) −1
珍しい。
週の始めは音信不通になりがちな礼二さんから、今週は日を開けずに電話が来ているようだ。
光も嬉しさを隠せないのだろう、携帯電話を耳に当てたまま話しながら、弾む足取りで自室から出てきた。
「……またそんなこと言ったって、どうせ礼二が決めちゃうんだろ?」
口調は拗ねたときのものだけれど、声色は至って明るい。
「……いいよもう慣れたー。それに、礼二の言うとおりハズレがないしね」
どうやら出かける約束をしているようだ。待ち合わせに早朝の時間を指定されたらしく、モーニングコールをねだる光の声が完全に甘えたものになっている。
前日から泊まりで行けばいいのに……、と考えてから、光がどんなに遅くなっても必ずこの部屋に帰ってくることを思い出した。この部屋で待っている人がいる。そのくらいには俺のこと、考えてくれているんだろうか。
笑いながら通話を切る光。
「雅人。俺、日曜は釣りに行くことになった」
「そう。よかったね」
「うん。朝早くからガタガタうるさくしたらごめん」
「いいよ。楽しんできて」
嬉しそうな光に合わせ、こちらも満面の笑みを返してやる。
今日は金曜日。
音信不通期間があろうとなかろうと、光に礼二さんからの誘いがくるのは金曜が多かった。
そして、俺のほうも。
「……あ、光ごめん。電話出てくる」
それに合わせるかのように、金曜日には必ず、尚宏からの着信があった。
会社員の尚宏とその恋人は、カレンダーどおり土日が休日になることが多い。
休日は家族と過ごすと決めている不倫相手に、寂しさを持て余す尚宏。俺でそれを補填できるのなら。日曜日は必然的に、尚宏と過ごす日が多くなった。
いや、それはたてまえで、本音は光のいない部屋にいても仕方がないから、なのかもしれない。だとしたら最低だ。
そうかもしれないと思いながら、俺はそれ以上自分の中に踏み込んで考えるのをやめた。
考えたって仕方がない。俺たちはみんな、こうして満たされているのだから。
「もしもし?」
いつもどおりのテンションで、電話に出た。向こう側からの反応がない。
「……尚宏?」
返事の代わりに伝わってきたのは、震える吐息と湿った空気だった。
「どうしたの?何か……」
「ま……さと。会えない?」
搾り出すような声が耳に届く。尚宏が泣いていることに間違いはなかった。
「……これから?」
「ごめ……、無理だったらいいから……」
「ほっとけるわけないだろ。どこにいるの?」
居場所を問い詰め、近くのコーヒーショップで待つよう指示した。
「光、ちょっと出てくる!」
相方の部屋に向かって叫べば、気をつけてー、とのんきな声が返ってきた。
ふつうにデートだと思われているようだけれど、その方が都合が良い。
光に逐一説明している暇はなかった。今は、急がなければ。
部屋の鍵を尻ポケットに捻じ込み、エレベーターを待つのももどかしく、非常階段を駆け下りた。
通りに出てすぐ、タクシーを拾う。気ばかりが急いた。
*****
静かなところで話したい、と言った尚宏は、俺がコーヒーショップに着いたときにはすでに落ち着いていた。
「ごめんね、急に」
申し訳なさそうに下げた眉の下、湿った長い睫毛が涙のあとを物語っていた。
「気にしないで。何かあったんだろう?」
「うん……、ここじゃあれだから、場所を移ろう」
ゆっくり話せる場所が思い浮かばなかったので、よく利用するホテルに入った。
俺たちはお互いの部屋を行き来したりはしない。ホテルでの逢瀬を定番にしていた。尚宏の部屋には恋人の気配がただよい、俺の部屋には気配どころか光本人がいるので、それも仕方のない話だった。
「……それで、どうしたの?」
キングサイズのベッドに座る尚宏に、ソファの上から問いかける。
はじめて会った日と同じくらいの距離感。今夜の俺は聞く姿勢を貫こうと思っていた。
尚宏がこちらに顔を向ける。思いのほか決意にひきしまった表情だった。
こちらを鋭く射る眼光にひるんだ俺は、尚宏のくちびるが動き始めるのをただ見ていた。
「別れたんだ」
「……え」
絶句する。雷にうたれたようだった。
恋人に関することで、ただごとではなさそうだとは思っていたけれど。まさかもう結論が出たあとだなんて……。
「ケンカしただけ、とかじゃないの?」
そうだといいな、と思いながら、薄っぺらい期待をこめて尋ねる。
「ちがう。本当に終わったんだ」
今にも割れてしまいそうな薄氷みたいな落ち着きを顔面に張りつけて、尚宏が吐き出す。こぶしをかたく握り、それをじっとにらみつけながら。
「あの人は家族のところに帰った。それだけのことなんだ。大丈夫、いつか来るってわかってたんだから」
「……尚宏」
言い切ったくちびるがかすかにふるえていて、俺は言葉につまった。
「大丈夫、わかりきってた結果だし」
「無理しないで……」
ほら、決壊しそうじゃないか。
「まさ……」
顔を上げた瞬間、一粒こぼれた。
俺はソファから立ち上がった。尚宏から視線をそらすことなくベッドに向かい、ためらいなく手を伸ばす。もう距離をはかってなんていられなかった。
「尚宏……」
震える肩を抱きしめる。
俺よりひとまわり小さな背中をなでてやると、尚宏はひとつしゃくりあげ、聞いてくれる?と言った。
「子供が……、二人目が生まれるんだって」
「こど……も?」
「知らなかったんだ、僕」
「……」
「夫婦仲は良くないって言ってたんだ。子供が大事だから別れないだけで、って」
「そう……」
子を成すことのできない俺たちにとっては、絶望的な別れの理由だ。
「ちゃんとうまく行ってたんじゃないか……」
つぶやく声がだんだん小さくなってゆく。
「尚宏……」
「僕、嘘つかれてたのかな」
その声に、湿り気が増す。恋人の裏切りに気づけなかったことを嘆いているのかもしれない。
「……なんて、不倫相手の僕にそんなこと言う資格ないんだけど」
自嘲気味に吐き出された笑いが、振動となって背中に触れた手のひらに伝わってくる。
「愛されてなかったのかな…、僕」
つぶやいた声が、しんとした部屋に響いた。
「がんばったな、尚宏」
かけるべき言葉が見つからず、そんなことを口走った。
伝わればいいと思いながら、抱きしめる腕に少しだけ力をこめる。
「尚宏は何も悪くない。ただ、ひとつ恋をしただけだ」
過去形にした。もう戻れないと、わかっていたから。
「また恋はできるよ」
つとめて明るい声になるよう、ぐっと顎を上げた。
「次は幸せな恋を、な?」
俺の肩に顔をうずめたまま、尚宏はゆっくりうなずいた。
*****
今夜はひとりになりたくない、とつぶやいた尚宏を、どうしても放っておくことができなかった俺は、その晩はじめて外泊をした。光が必ず帰ってきてくれているので、俺もできればそうしたかったのだけれど。
尚宏と一緒にいることは、光もわかっているはずだ。理由を伝える自分が言い訳がましくなりそうで、携帯の電源を落とした。無断外泊ってやつになってしまうけれど、仕方がない。
のりのきいたシーツの中でかたく抱き合い、眠ることもないまま目を閉じて、俺と尚宏は朝が来るのを待った。太陽が暗闇と一緒にすべての憂鬱を連れ去ってくれるのを、ひたすら祈りながら。
恋の終わりは、いつだって身体を引きちぎられるような痛みを伴う。
俺もかつては恋をして、そんな終わりを経験したことがあった。もう恋なんてするものかと思ったものだ。
そう思いながらも、光に恋をした。姑息になった俺は、恋に落ちたことを自覚すると、今度はそれを失わない方法を考えた。
失わずに済むのなら、あいまいな関係でも構わない。そう、思っていたのだけれど……。
早朝の柔らかな光の中、尚宏と別れた。
「ありがとう」
そう言って薄く微笑んだ尚宏の頭をなで、
「毎日電話する」
そう言うのが精一杯だった。
俺がいるから大丈夫――言えなかった理由は、自分が一番よくわかっていた。
*****
玄関のドアを静かに閉める。
もちろん無断外泊のうしろめたさもあったのだけれど、まだ光の出てくる時間までは1時間以上もあった。仕事で疲れているだろう彼を起こさないよう、俺なりに気をつかったのだ。
リビングのソファにゆっくりと腰をおろし、寝不足に弱い痛みを訴える頭を抱えた。脳裏にめまぐるしく展開する相関図が、頭痛を助長する。
光には、礼二さん。
恋人を失った、尚宏。
俺は……?俺は、どうする?
見守るだけで、満足?たまに触れるだけで、満足?
ちがうだろう?
心の奥で、低い声が響く。
ため息をつき、顔を上げた。立ち上がり、光の眠る部屋のドアに向かう。音を立てないように開けると、静かな寝息が耳に入った。
足音を忍ばせ、ベッドサイドに近づく。眠りが浅いのか、光の閉じられたまぶたは不規則にふるえている。抱き合うことはあっても眠るときは別々なので、寝顔をこんなにじっくりと見たことはなかった。
光が起きてしまうかもしれないという考えは頭に浮かばなかった。まぶたに指を伸ばし、そっと触れる。手のひらに温かい呼気がかかる。
光もいつか、礼二さんと別れる日が来るのだろうか。それまで俺は、待つことができる?
自問自答はすぐにやめた。今は答えが出せそうにない。
眠る天使を抱きしめたい気持ちが、溢れだしそうになる。
俺は無理やりそれを抑え込んだ。
Copyright(C)2014 Mioko Ban All rights reserved. designed by flower&clover