複数恋愛

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7章 すれちがいの水曜日(Side尚宏)



何の予兆もなかったと言えば、うそになる。
その日は水曜日で、翌日の外回りが課長と一緒だとわかった僕は、すぐに携帯電話を手に取りメール作成画面を開いた。
――今夜、どうですか?
社内では前日の余韻を感じさせないパリッとした課長が、二人きりになったとたんに気を抜くのを見るのが好きだった。

入社して3年目で配属された営業1課は、その仕事内容に合う快活な男ばかりで構成されていて、どちらかといえば引っ込み思案だった僕は、最初のうちとまどった。なぜ僕のような社員を営業にと、自分ばかりでなく同期の友人たちも不思議がっていた。
そんな僕に、営業の仕事を一から教えてくれたのが、課長の岩見純一(いわみじゅんいち)さんだった。課長じきじきに新人教育なんて、今考えたら不自然きわまりなかったのだけれど、そのときの僕は、とにかく新しい仕事を覚えようと必死で全くおかしいとは思わなかった。

僕の引っ込み思案は持っている性格のせいではなく、どちらかといえば持っている性癖を隠すためのものだった。
僕はゲイで、しかもネコ。男としては少し物足りない身長と女顔、その上口調も物腰も柔らかいので、特にカミングアウトしていなくても昔からすぐにその手の噂が立った。
会社でも然り。槙はそっち系だと、何度ささやきあう声を耳にしたかわからない。
それに対して僕は、肯定することはもちろんなかったけれど、特に否定することもなく過ごしてきていた。
自分のアイデンティティーを否定する気にはなれないのに、ゲイであることはやはり偏見の目で見られ、生活をしていく上で不便なことが多い。自分でも認めているほどに淋しがり屋の僕は、ゲイだとばれることで周囲から人がいなくなるのが怖かった。

結果、槙はそっち系っぽい。そのくらいの曖昧さで、噂は常に僕のまわりを漂っていた。
噂は立ったけれど、僕にとって特に困ることもなかった。むしろ得だと感じることの方が多かった。
男性社員に合コン要員としてかり出されることもなかったし、数少ない女子社員は、僕だけに限定スウィーツのおすそわけをくれたりコジャレたカフェのランチに誘ってくれたりと、可愛がってくれた。
社内に恋愛を持ち込みさえしなければ、僕の会社員生活は順風満帆だったのだ。

課長とそういう関係になったいきさつは、いかにもありきたりなものだった。
配属された当初から、課長に憧れていた。仕事のできる大人の男。
新入りで飲み込みのよくない僕に、苛つくこともなく丁寧に仕事を教えてくれる。うまくやれたときに必ず、よくやったな、と頭に置かれる大きな手のひらが心地よかった。
憧れの上司。やましい気持ちを全く抱いていないわけではなかったけれど、どうこうなりたいと考えてはいなかった。

あれは3年前の春、課をあげた一大プロジェクトが成功を収め、その慰労会の日だった。
課長の隣に座り、グラスが空くたびにビールを注がれるのが僕の役目だった。
会計を済ませた居酒屋の前。僕に顔を寄せ、もう1軒どうだと耳打ちした課長。息のかかった耳がやけに火照ったけれど、断る理由はなかった。
ふたりきりでバーのカウンターについたとき、僕はその夜何かが起こることを確信した。

「課には慣れたか?」

世話の焼ける部下に、面倒見の良い上司。
他人の目には、そんな関係に見えた、あの夜のはじまり。

「慣れた……ように見えますか?」

ごく自然に、こびるような声が出ていた。
1軒目の居酒屋で、若い社員の立場上かなりの量を飲んできていたのも、原因だろう。
どこか無重力にも似た空間で、視線を動かすたびにゆれる景色。僕は、酔っていたのだと思う。
上目遣いに覗き込んだ課長の精悍な顔は、僕のそんな仕草に動じることもなく柔らかな微笑をたたえたままだった。
くらりとした。
一旦視界をリセットするようにゆっくりとまばたきをして目を開けると、課長がかすれた声で出よう、と言った。

夜道を歩く僕らは、そのときには完全に上司と部下の関係を逸脱してしまっていた。
酔いにかまけてもたれかかる僕。その腰を軽く抱く課長。もつれるようにして、川沿いのホテルに入った。
言葉は要らなかった。このまま流されて一晩限りで終わってもいいと思いながら、課長に抱かれた。

朝になり、酔いもさめ、いたたまれなくなった僕は、先にホテルを抜け出した。
早朝のコーヒーショップ。
済んだことは仕方がないのだと言い聞かせたところで、やはり渦巻くのは後悔で。
……というのも、僕は知っていたから。
課長には……、家庭があるということを。

男同士のうえに不倫だなんて、どう考えたって、僕のキャパシティを超えている。
やめよう、忘れよう、一度きりにしよう、そう思っていたときにはすでに遅かった。以前から課長に抱いていたのは憧れではなく、恋心だと気づいてしまったから。

ラテを選んだはずなのに、やけに苦く感じた。
無理やり忘れるには、あまりに鮮烈な、昨夜の記憶。ため息とともに、ぬるくなった液体を飲み込んだとき。メールの受信を知らせるバイブレーションが、僕の胸ポケットをふるわせた。

――昨日はごめん。でも逃げないでくれないか。君のことを、ずっと見ていたんだ
そう綴られたメールの画面に、目が釘付けになる。

――家庭のある身で、こんなことを言う自分に心底あきれている
その通りだとおもう。

――それでも君を、あきらめきれない
そんなことを言われると……。

――いっしょに落ちてくれないか
拒絶なんてできるわけないじゃないか……。

そして始まった同性不倫の恋。
課長――純一(じゅんいち)さんにとっても、いいことなんてひとつもないはずだった。そもそも、ゲイだと噂になっていた僕に興味本位で近づいて教育係なんて買って出たのが、あの人にとっては運のつきだったんだ。
うっかりはまって、抜け出せなくなって……。後悔しているにちがいないのに、そんなそぶりも見せないで。

1年間、僕たちの恋は大波小波を乗り越えながら続いた。
夢中になってしまったら、つらい恋だった。
一緒に朝を迎えられないこと。スーツを脱いで、明るいところで会えないこと。
純一さんの家庭を壊すつもりなんて、さらさらなかった。つらくても耐えようと決めていたし、想いを投げ出すことは考えてもみなかった。

ひたすら耐える日々の中で、たまにそれが決壊することはあった。
雅人に出会ったのは、まさにその瞬間。
淋しさに壊れそうだった心を、雅人が優しく癒してくれた。
雅人との交際に、純一さんに対してうしろめたさを感じることがあまりなかったのは、やはりどこかでお互い様だと思う気持ちがあったからだろうか。雅人にも、同居する恋人のような相手がいることを知っていたし、誰も彼もが半端な心を身を寄せ合って埋めているような、そんな状態だった。



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