複数恋愛

12



*****

――今夜どうですか?
それに対する返信は、言わずもがなOKだった。そういう日にしか僕が誘わないこともある。
会社帰りにコンビニに寄り、二人ぶんの缶ビールとつまみを買う。夕食は必要ない。二人とも酒のアテで十分なのだ。

自室のドアに鍵を差し込みながら、課長に渡した合鍵の、鍵穴への適合がいまいちだったことを思い出した。
今は主流になりつつある、シリンダー錠。コピーキーは作りにくいらしく、専門の業者に、合わないこともありますから、と、あらかじめ釘をさされていた。一瞬ひっかかりをみせるその合鍵は、部屋の主である僕をとまどわせるのに、課長の手にかかるとスムーズにその役目を果たした。
それだけの回数と頻度で、あの人はこの部屋を訪れている。そう思うと自然に笑みがこぼれた。

灯りをつけ、小さくただいま、と言う。その瞬間無人の空間は、淋しがり屋の僕を、いつもゾクリとさせる。帰る家が同じ誰かがいる雅人を、うらやましく思う自分がいた。

冷蔵庫にビールをしまっていると、チャイムが鳴った。
合鍵を持っているにも関わらず、課長はいつもチャイムを鳴らす。気兼ねすることはないのに、と言ってはみたけれど、雅人の存在を明かしている手前、そうされるのも仕方のないことなのかな、と思う。
僕はすぐに玄関を開けることはせず、いつもしばらくドア越しに様子を伺う。差し込まれ、しっくりくるポイントを探すように感触を確かめながら回される鍵の音。僕になじんだ課長をたしかめたくて、それに耳をすませた。

「いらっしゃい」

微笑みを携えて、愛しい人を迎え入れる。
一日の疲れが垣間見られる少し乱れた髪と、スーツの襟元から汗のにおい。
ひとまわり年上の恋人は、 表情の奥にその疲労感を押し込んで、僕ににっこり笑った。

たしかに笑った……。でも。
その表情に、僕はかすかな曇りを見つけてしまった。一瞬のことだったけれど、課長のことばかり見ている僕が気づかないわけはない。
仕事で何かあったのかな……?基本的に仕事の愚痴は極力僕の部屋に持ち込まない人だから、余計な詮索はせず、課長自ら話すのを待つしかなかった。

スーツを脱いで、僕の部屋に置いてあるスウェットに着替えた課長は、人一人ぶんの空間を開けて僕の隣に腰をおろした。
どうしたのだろう……。仕事が原因ならば、こんなふうに僕と距離をおいて座ることはないはずだ。
もしかして、僕と距離をおきたいのかな……。
そう思いながらも、いつもと同じようにビールを飲み干し満足そうに口を拭う彼に、深刻な話は持ち出せなかった。

気にしないようにしよう。つとめて明るく振る舞ってはいたけれど、その夜の行為にいつものような熱さが感じられないような気がして、さらに不安は増した。
とうの昔に泊まりを勧めることもなくなり、送り出す午前2時。

「純一さん。……また来てくれる?」

つい言葉がすがりつくようなものになってしまった。
言いようのない不安に押し出された形の僕の台詞に、

「……おやすみ」

明確な答えをくれなかった彼。
不安をありありと顔に貼り付けたまま固まる僕を残し、ドアはゆっくりと閉められた。
……本当に何があったのだろう?

「またがないってことは……、ないよね?」

思わずつぶやいた言葉が、人影の消えた冷たい玄関に響いた。



*****

不安でいっぱいの僕が、何があったのかを知ることになるのは、それからたったの二日後だった。
週末を一緒に過ごすことのない僕らは、金曜日に連絡を取り合うことはほとんどなかった。
ただ、その日はちがった。
課長からの着信を知らせる午後10時の電話。嫌な予感しかしなかった。
これから会えないか、という誘いをとっさに断る理由が思いつかず、受けてしまった。

すっかり冷たくなった夜風は、秋というより冬のそれに近い。帰宅直後で着替えも済んでいなかった僕は、スーツの上に羽織ったコートの襟を立て、指定されたバーに急いだ。
風が枯れ葉を舞い上げる夜道は、節電のために街灯がまばらに点けられている。 前屈みになった僕の影は、今夜いちだんと本体である僕自身を小柄に見せていた。

「尚宏、ごめん」

謝罪から入るなんて、ずるいと思った。衝動に任せて怒るわけにもいかないじゃないか。

「……じゅんい……ちさ」
「……別れよう。じゃないな、別れてくれ」
「……」

来た、と思った。真っ白な頭の中に、それだけが浮かんだ。

「もうすぐ子供が生まれるんだ」
「……え」

子供がいるのは知っていた。だけど夫婦仲がしっくりいかず、第2子は望めないというような話だった。
一転した状況を知らされ、驚きに絶句する。

「黙ってて悪かった。少しでも長く、君と過ごしたかったんだ」

第三者から見れば言い訳にしか聞こえないそんな台詞が、当事者の僕の胸には切なく迫る。

「……」
「尚宏……」

そんな目で見ないで。僕を突き放す言葉を吐きながら、すがるような目で見ないで。

「……わかり……ました」

しぼり出した声は、間違いなくふるえていた。

「ごめん……。ごめん、尚宏」

バーなんて人目のある場所を選んだのは、ともすれば相手に伸びそうになる手を自制するためなのかな……。そんなことを考えながら、繰り返し謝罪の言葉をつむぎだす課長の口元を、僕は呆然と見つめていた。
何度も、何度も触れたくちびる。最後にもう一度キスしてくれないかな…、なんてかなわない望み。
かなわないのならば、わかったって言ったんだからもう解放してよ。でないと……このまま、あなたの目の前で泣き崩れてしまいそうだ。
くちびるを噛みしめて時をやりすごした。
そんな僕の心情を察してか、課長はそっと視線をはずして立ち上がり、

「……明日からもよろしくな、槙」

そう言って背を向けた。

尚宏、と。呼ばれることはもうないんだ。
記憶の中にしみついて離れない、愛しい声で再生される自分の名前を、僕は何度も頭のなかに呼び戻した。
本当に終わったんだ……。
ぎゅっと握り締めたこぶしをバーのカウンターに置いたまま、僕はしばらく動けないでいた。



*****

頼る相手は雅人しかいなかった。
酔ってもいないのにふらつく足でバーを出た僕は、無意識に電話をかけていた。

「もしもし?」

柔らかく包み込むようないつもの雅人の声に、何かが決壊した。
本当は、電話口で話を聞いてもらうだけにするつもりだったのに……。
気づけば僕は、会えない?と口にしていた。

ふたりで入ったホテルの部屋で、僕は雅人に洗いざらい話した。
話していくうち、いつの間にか一歩引いて自分を見ることができていることに気づく。
課長は僕に嘘をついていたのかな。愛されて、なかったのかな。
涙に暮れる僕を、雅人は一晩中抱きしめてくれた。
雅人のくれる温かさだけが僕を生かしてくれる気がして、

「毎日電話するよ」

そう言ってくれた雅人に、全てをゆだねてしまいそうになった。
雅人となら、幸せになれるんじゃないかって……。
だけど、一度も振りかえることなく去ってゆく雅人の背中には、到底僕の手は届きそうになかった。



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