複数恋愛

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8章 崩れ去る瞬間(Side光)



今夜も雅人がいない。ひとりきりの2DKは、やけに広く感じる。
絵画教室の講師をしている雅人は、いつも俺より帰りが早い。仕事を終えた俺が、マンションの前にたどり着き部屋を見上げると、必ず窓に明かりがともっていた。

というのは、先々週までの話。
あの日はじめて無断で外泊した雅人は、俺がベッドを出たときにはすでに自室にいた。なぜ外泊したことがわかったかというと、一睡もしなかったからだ。
帰宅した雅人が俺の部屋に入ってきたとき、とっさに寝たふりをした。どうやって外泊のことに触れたらよいのかわからなかったし、そもそも俺に触れる権利があるのかどうかすらわからなかったから。

足音を忍ばせて、雅人がこちらに近寄る気配がした。
息をこらしてじっと待っていると、まぶたにそっと触れる指。
それだけで、俺は。
雅人が何か苦悶しているんじゃないかってわかったんだ。
長く一緒にいるからこそわかる、空気みたいなもの。
朝になったらちゃんと話を聞こう、そう思って息をこらした。

「尚宏がひとりになった」

やっぱり尚宏さんと一緒だったのか。
明るい日差しの差し込むリビングで、少し疲れた表情の雅人がぽつりと言った。

結局どう切り出してよいのかわからなかった俺は、「昨日、遅かったな」としか言えなかったのだけれど、雅人は察してくれたらしい。俺が、聞くつもりでいることを。

「……良かったんじゃないのか?不倫だったんだろう?」
「うん……。そうなんだけど……」

口ごもる雅人。
どうしたって俺にとっては他人事だ。
不倫の恋がつらいなんて、一般論かもしれないけれど、どう考えたってつらくないわけがない。
ましてや同性相手。
時間が経てば、次の恋がきっとできるはず。自分だけを一途に見つめてくれるような……。尚宏さんにも、そんな相手ができるといい。
単純にそう考えていた俺は、そこではたと雅人の眉間のしわに気がついた。

「光。僕は尚宏を放っておけない」

苦しそうな声。

「わかるよ、雅人」

今がいちばん、ひとりがつらいときだもんな。
うなずきながら共感を示すと、雅人が低い声を出した。

「……光はわかってない」
「え……?」

聞いたことのない強い調子で俺を否定した雅人に、一瞬ひるむ。けれど雅人は、俺の目を見ない。

「どう……いうこと?」
「これからは、尚宏と一緒に過ごす時間が増えると思う」
「うん……」
「電話も毎日するって言ったんだ」
「そうだね」

そうしてあげたらいいと思う。

「だから……!」

勢いよく雅人が顔を上げた。

「だから光はわかってないって言うんだ!」

雅人が声を荒らげる。
俺の目をじっと見つめる……というよりにらみつけるようにした瞳が、たしかに潤んでいた。

「な……にを?」

いつもと全く様子のちがう雅人に、まともな言葉が出ない。

「……光は……いいの?僕が……尚宏と……」

いいも何ももう付き合ってるじゃないか、と言いかけてやめた。雅人はそういうことを言っているわけじゃない。
開きかけた口を閉ざし、俺は考えた。
そしてようやく悟った。
雅人は、俺から離れて尚宏さんにまっすぐに向き合うつもりなのかもしれない。

「……雅人。俺は何も言えないよ」

だって。

「言う資格、ないだろ?……俺にも、礼二がいるのに……」

情けない声でつぶやけば、雅人が潤んだ目を伏せた。

「……わかった」

ため息とともに吐き出された了解の言葉。
俺は答えを間違ったのかな?

「ごめん、少し寝るよ」

そう言って自室に向かう雅人の背中を、自問自答しながら呆然と見送った。



*****

それから雅人は変わった。
家に帰っても電気がついていないばかりか、外泊も頻繁にするようになった。
尚宏さんと毎日しているらしい電話の声が、聞くつもりはなくても耳に届いてくる。明るい笑い声。
同居しているのだから、当然知ることになる事実。たとえ知りたくなくても、だ。
本当に、このまま完全に尚宏さんのところへ行ってしまうのではないか。近い将来、同居を解消してほしいと言い渡されるのではないか。不安にさいなまれながら、ひとりの夜を数えた。

俺にだって、礼二が……。そう思えたら少しは楽だったのだろうか。
その礼二とは、タイミング悪く1週間前から、また連絡がとれなくなっていた。
いつものこと。いつものことだから大丈夫。そう考えて過ごした5日間は、慣れもあってか淡々と過ぎた。
その週の日曜日をひとりで過ごしたあと、さすがに胸がざわつき始めた。いつもなら、大丈夫だよ、などと言いながら話を聞いてくれる雅人も、尚宏さんと出かけていて不在だった。普段のにぎやかで幸せに満ちた日曜日とのギャップが大きすぎた。
土、日と外泊して帰宅した雅人が、月曜日の朝仕事に向かう玄関口で言った。

「めずらしいじゃない、光が月曜日に起きてくるなんて」

当然礼二と日曜日を楽しんだと思っているのだろう。悪びれない雅人の言葉が、胸に突き刺さる。

「いいじゃん。俺だってたまには早起きするさ」

そう言って、無理やり笑って送り出した。
雅人に礼二の愚痴をこぼすことは、もうできそうになかった。



*****

淡々と、できるだけ淡々と日々を過ごす。
起きてすぐにテレビをつけ、その内容に没頭するべく、画面を凝視する。そのまま視線を固定していれば、やがて時間が来る。ゆっくりと視線をはずして立ち上がり、緩慢な動作で支度をして仕事に出かける。
職場に着いてしまえば、慣れた作業だ。厨房に気を配りながら、フロアでの接客。レギュラーメニューは暗記してしまっているし、シーズンメニューの注文も、それほど俺を困らせたりはしない。
無心で仕事をこなす。しまりのない後輩に小言を言い、客からの苦情にうわべだけの真剣さを貼りつけて対応する。

そうやってなんとかやってきた木曜日のことだった。
礼二と音信不通になって、ちょうど2週間が経っていた。例によって、雅人は外泊しており、ひとりきりの朝。
突然震えた、テーブルの上の携帯電話。雅人からの連絡だと思った。
お互いぎくしゃくして外泊続きでも、必ず一日一通はメールをよこす、そんな奴だったから。

「え……」

取り上げて画面を見て固まる。
予想外だった礼二の名前。一瞬で鼓動が加速した。

――あ、光?元気か?今日そっちに帰るから

何の曇りも感じさせない、明るい声だった。
後ろの喧騒からして、外からかけているのだろう。アナウンスのような音も聞こえる。

「どこにいるの?駅?」

とにかく所在が知りたかった。

――空港。あ、旅行で……
「……」

絶句した。
……旅行って、言った?

――もしもし?
「……彼女と?」
――え?聞こえない。なんて?
「彼女と一緒なのかって聞いてるんだよ!」

突然、感情が決壊した。

「2週間、何にも言わずに彼女と楽しく旅行だなんて……」

止まらない。

「俺が……っ。どんな気持ちで……っ」

感情と一緒に、涙腺も決壊した。

「く……っそぉ……」

それまで沈黙していた礼二が、さっきまでと声色を変えた。

――ごめん、光……。泣くなよ、な?
「うるさい!」
――帰ったら、連絡するから……

この場は逃げようって魂胆かよ?
そうだよな、彼女が一緒なんだもんな。
……逃がすかよ。

「……そこで待ってろ」
――あ、いや帰ったらすぐにれんら……
「待ってろっつってんだよ!!」

叫ぶように、言葉を叩きつけた。そのまま通話を切断する。
頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。



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