複数恋愛
15
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無意識に車を運転してマンションに帰ってきた。
礼二があんなことを考えていただなんて……。
知らなかった。気づかなかった。よく考えれば当然のことなのに。
でも……。
じゃあ、あのマグカップはなんだったんだ?引っ越し祝いにもらった、雅人とのペアカップ。
あんなものをくれるくらいだから、てっきり雅人のことは受け入れてくれているものだとばかり……。
ドサッとソファに身を預ける。沈み込む身体。
――このまま……埋もれてしまいたい……
玄関の鍵穴に鍵を差し込む音がした。
雅人が帰ってきたのか……。
目の前の壁掛け時計を見上げる。気がつけばもう、こんな時間だ。外が暗い。
ドアを閉める音の後、パチリと電気がつけられる。
「光?」
リビングに入ってきた雅人は、だらりとソファにもたれる俺を見つけて、ぎょっとした声を出した。
「え、どしたの?仕事は?」
いつもなら俺が帰るのはもっと遅い時間だ。雅人が不審に思うのも無理はない。
「……休んだ」
事実を告げる。
「具合悪いの?それとも何かあった?光が仕事休むなんて……」
久しぶりに聞く、雅人の心配そうな声。
俺の話を聞いてくれるつもりなんだろうか?
「雅人……」
顔を上げて雅人の目を見つめながら名前を呼ぶと、自然と声がふるえた。
久しぶりに雅人の優しさにふれて、安心したからかもしれない。
「……礼二さん、連絡取れたの?」
「え、なんで知って……」
礼二とまた音信不通になってるだなんて、今回は言っていない。
「……やっぱり」
ふぅ、と小さくため息をついた雅人。
どうしてわかったのだろう?
「なんでわかったのかって思ってるんでしょ?わかるよ。光のことなら」
苦笑しながら小声で言う。
ここのところ、すれ違いの毎日を送ってきていたから予想外だった。
雅人はやっぱり俺のことを見ていてくれてる。荒れていた胸の中が、穏やかさを取り戻す。
「雅人、聞いてくれるの?」
本当は聞いてほしいのだけれど。
「嫌だったら、いいから……」
今の俺たちには、このくらいの距離が必要な気がした。
「話して、光」
ふわりと微笑む雅人の表情は、以前と全く変わりがないように見えた。
促すような視線に、心を決める。
「礼二に……、別れようって言われたんだ」
「……そう」
少しだけ目を丸くしたものの、雅人は落ち着いて相槌をうった。
安心した俺は、さらに続ける。
「あいつ、女の子と旅行してて2週間連絡とれなくてさ」
「うん」
「それ聞いて俺、キレちゃって。嘘ついて仕事休んで、礼二のいる空港まで行ったんだ」
「それで?」
「特別な彼女ってわけじゃなかったんだけど、もう俺たまらなくてさ、浮気やめてほしいって言ったんだ」
「……礼二さんはなんて?」
「はっきり言われたよ」
ここから先は、俺と礼二ふたりだけの話では済まない。雅人に話すのは気がとがめたが、流れ上仕方がない。
俺はうつむき、ひとつ息を吸い込んだ。
「礼二のは浮気だけど……、俺のは本気じゃないかって」
「……え?」
「雅人のことだよ。あいつ、俺が雅人と一緒にいることに耐えられなかったんだって」
言い切ってしまってから、雅人の顔に視線を戻す。
絶句し、薄く開いたくちびる。目は見開いたままだ。
驚いたよな。そうだろうな。雅人もきっと、礼二は受け入れてくれているものと思っていたに違いない。
「それが別れの理由だって」
「ひか……る」
「俺、何も言うことできなくてさ。気づいたらうちに帰ってたよ」
雅人がゆっくりと俺から視線をはずし、目を閉じた。
長く息を吐き出し、それからドサリと俺の隣に腰掛ける。
「……」
「……」
沈黙の時間が、ふたりの間に流れる。
隣で雅人が頭を抱える気配がした。
「――それで……」
くぐもった声が聞こえた。
「それで光は、どうしたいの……?」
独り言かと思うような、小さな声だった。
――俺?
――俺は……
――どうしたいんだろう?
カチカチと、時計が時を刻む音だけが響く。
頭を抱えたままの雅人は、まるでこれから出す俺の結論を恐れてるかのようだ。
小刻みにふるえる肩。
俺も、怖い。
結論を出してしまったら……。いや、もう結論は出てる。
結論を口にしてしまったら……。
――雅人とは一緒にいられなくなってしまうから。
どのくらいの時が過ぎたのだろう。
言わなくちゃ。
俺が、言葉にしないと。誰も前には進めない。
「雅人」
華奢な肩に手のひらを乗せる。
こうして雅人の体温を肌で感じるのも久しぶりだな、なんて場違いなことを考えながら。
「俺、礼二と別れたくない」
自分の中でとうの昔に決まっていた答えを告げる。
「礼二のこと、やっぱり好きなんだ……」
それと、もうひとつ。
俺がどうしたいのか、本音で伝えなくては。
「でも、雅人とは離れたくない」
触れていた肩が、びくっと反応した。
「俺には雅人も必要なんだ……」
顔を上げない雅人に、頭の中そのままをさらけ出した。
「ごめんな、困るよな。無茶言ってるのはわかってる。だから気にしないで。俺がどうしたいのか正直に言ってみただけだから……」
言い切ると、ため息が自然と出てしまう。
やっぱり無理だよ、と拒絶されるか。今までどおりでいようと受け入れられるか。
その後の展開は、どちらでもなかった。
「光は全然わかってない……」
頭を抱えたまま、雅人が声を振りしぼる。
俺は見えない顔を覗き込んだ。
「こないだも言ったでしょ?光は……俺の気持ちなんて全然わかってないんだ……」
「雅人?」
「俺が……っ!」
突然視界がぐるんと回った。
したたかに頭を打ち付け、一瞬めまいがした。相手がソファの柔らかい肘かけでよかった。
――雅人に押し倒されている。
脳が状況を理解するまでに、しばらくかかった。
「え……?まさ……!」
言葉を奪うように塞がれたくちびる。
久しぶりの雅人のキスは、一方的に俺を侵食してゆく。いつも交わしていたような温もりの感じられる幸せなキスではなく、情動に身をまかせた身体に火をつけるためのキス。
「……っはぁ」
ようやくくちびるが解放された。
俺に顔を見せることなく雅人の頭はそのまま首筋に落ちてくる。頚動脈を二、三度強く吸われた。
「雅人……っ」
無理やりなその行為に、自然と身体が反発を見せる。身をよじり抗議の声を上げたが、雅人は応えない。
そればかりか、もがく俺の足を自分のそれで抑制しようとしてきた。思いのほか強い力に、抵抗する気力が萎える。
首筋へのキスを続けながら、雅人は指を俺のシャツに伸ばした。厚地のボタンダウンのシャツは、その生地のかたさでもってボタンを外そうとしている指をもたつかせる。苛立つ指先を感じた。
こんなに常軌を逸した雅人は、これまで見たことがなかった。
「……っ!」
二つ目のボタンであきらめた雅人は、俺の鎖骨に歯を立てた。痛みに思わず身体が浮く。
かたく閉じていた目を開けると、そこには見たことのない表情をした雅人がいた。その瞳の奥にともる炎を、怖いと思った。
「いや……だ!」
恐怖心にあおられ、自分でも想定外の強い力で雅人の肩を押しのけた。
「やめて……雅人!」
懇願すると、視界がかすんだ。
泣きたいわけでもないのに、涙がこぼれる。
「まさ……と……」
俺の大好きだった雅人は……、どこ?
押しのけられて硬直していた雅人が、俺の涙を見て顔色を変えた。瞳の中の炎が消えてゆくのを見つめながら、安堵でさらに涙腺がゆるんだ。
「……っ」
「ごめ……っ」
嗚咽をもらす俺に短く謝罪の言葉を口にしたかと思うと、雅人は視界から消えた。少し遅れて、身体を包む温もりに、抱きしめられているのだと気づく。
首筋に、雅人の息づかいを感じる。呼吸を整えるかのように、数回ゆっくりと息を吐き、雅人が話し始めた。
「びっくりさせてごめん……」
「うん……」
それしか返事のしようがない。
「でも、光は知らないんだろう?」
俺の首筋に口を押し当てたままで話す雅人のふるえる声。
不安定なその様子に、胸がつまる。雅人はいつだって、誰かに気持ちの波を悟らせたりはしなかった。
「知らないんだろう?……俺が……どんな想いで光のことを見てきたのか……」
「まさ……と」
苦しそうな声に、胸が詰まる。
「俺はね、光……」
宣告される言葉が怖い。俺は息をつめた。
「俺は光を抱きたい。壊れるくらいめちゃくちゃに抱いて、独占したい」
「え……」
「光がいれば何もいらない。光にも俺だけを見ていて欲しい。……そう……思っていたんだ、ずっと」
「……雅人」
知らなかった。
独占したかった?しかも、ずっと……?
やるせなさに声を失う。
「もう、限界なんだ。俺も」
「ごめんね、光」
俺は気づかないうちに、礼二だけでなく雅人も傷つけていたんだ。
ゆっくりと上体を起こす雅人。
濡れた瞳がきらりと光を反射し、それを見て俺は放心した。
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