複数恋愛

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9章 真実の独白(Side礼二)



このまま遠くへ行ってしまいたい。
自分が誰かもわからないくらいに記憶をなくして、海の向こうに消え去りたい。

そんなことを考えながら俺は、どこまでも続く雲の絨毯を眺めていた。




*****

一緒に旅をするのなら、女性のほうがいい。これは俺の持論で、特に行き先が海外の場合、同伴する相手は女性しか考えられなかった。カップルと見なされた方が、海外旅行では何もかもがスムーズに進む。
ふと思い立って、南の島へ向かうチケットを取った。二人分のチケットを握り締め、ためらいなくサヤカの携帯を呼び出した。

「なぁ、有給って突然取れるものなのか?」

取れないのなら、誘っても仕方がない。
サヤカがだめなら他の誰かを誘うことをなるべく匂わせたくなかったので、はじめからそんな聞き方になってしまった。

「唐突ね」

不躾とも受け取れる俺の質問に対して返ってきたのは、カラリと明るい笑い声。やっぱりこいつはいい女だし、好きだと思う。
――ただし、女の中では、だが。

「こんばんは、から入ればよかった?」
「別にいいわよ。どうせ答えはノーだから。成績トップの営業職にそんなことできるわけないじゃない」

仕事ができそうだとは思っていたけれど、やはりトップなのか。

「それならいいんだ。トップを是非維持してくれ」
「旅行にでも誘ってくれるつもりだった?」

相変わらず勘がいい。

「まぁそんなところだな」
「ごめんね。でも私じゃなくて、あの人を誘えばいいじゃない」
「あの人?」
「ほら、いつかの電話の。あの後、かけたんでしょ?」

よく覚えているな。でも……。

「あいつは誘えないんだ」

むしろ、あいつから逃げるために行くのだから。

「礼二ってさ、見かけによらずヘタレよね」
「失礼だな」

くすくす笑いが耳に伝わる。
実際そのとおりなので、強く反論できない。

「わかってるとは思うけど、踏み込まないと得られないものもあるのよ?」

聡明な女の言葉が耳に痛い。



*****

結局、今回旅の道連れになってくれた女は、デザインスクールの学生だった。一度社会人を経験してから学生に戻っているので肩書きほど若くはないが、きちんとした目標をもった大人の女で、旅で刺激を受けたいのだと言っていた。
課題をこなせば欠席はなんとかなると言う彼女とは、出発当日の空港で待ち合わせ、そこでチケットを渡した。
事前に会って、計画に盛り上がることもなかった。とにかく逃げたい一心の俺は、旅行を楽しむという考えにはまるで至らなかったのだ。
その上現実からの逃避行であるにも関わらず、全てを置いてひとりで飛ぼうとも思えなかった。
身代わりでもいい、誰かをそばにと望む弱い心がそうさせたのだろうか。とにかく、相手にとってみれば最低の道連れだった。

旅先では、ホテルにこもりっぱなしで部屋のベランダからひたすら海を眺めていた。
彼女は彼女で、刺激を受けたいと言ったとおり、スケッチブックを片手に毎日歩き回っていたようだったので、つまらない思いをさせて申し訳ない、という気分にはならずに済んだ。
日中は完全に別行動を取っていたけれど、さすがに夜は同じベッドで眠った。男女がふたりきりで旅行に来ているというのに、そこまで別々では彼女に申し訳ないと思ったのだ。

身代わりにしようにも全く感触のちがう白く柔らかい身体を腕に抱きながら、彼女がさすがにひとりで海に入ったりはしていないことに気づく。
南の島に行ったというのに、日焼けのひとつもしていないというのは、帰国した際に体裁が悪くはないか。
最終日くらいは、海に誘ってみようか。
ほとんどいないものとして扱ってしまった彼女への罪滅ぼしに、今さら俺はそんなことを考えていた。

「いじ…。礼二…?」

考えごとをしていたせいで、反応が遅れた。
正常位で組み敷いた女が、行為のためではなく眉を寄せる。

「こんなときくらいは私を見てくれない?」
「……」
「なんてね。言ってみたかっただけ」
「ごめん」

謝ることしかできなかった。
だって――
事実俺は、彼女を見てはいなかった。
つながる部分以外での接触を避け、目をそらせば、そこにいるのは光だと思えなくもなかったから。

結局、海には入らなかった。
朝食のテーブルで、最終日くらいはと提案を持ちかけた俺に彼女は、

「最終日だからこそ、行きたいところがあるのよ」

そう言って片目をつぶってみせた。
サヤカほどではないものの、やはり聡い部類に入る彼女にはわかっていたのだろう。俺が全く本心から海に入りたがっているわけではないことが。
それから、俺と一緒にここにいる相手が自分である必要はなかったということが。

終日ホテルのベランダに出ていたおかげで、海に入らなかったにも関わらず、服から見える部分の肌はほどよく日焼けしていた。これならば、俺が南の島から帰国したということを疑われはしないだろう。

外国の空港と日本の空港の大きなちがいは、係員がやたらフレンドリーに声をかけてくるところだと思う。でっぷりと太った出国審査の係員が、パスポートのページをめくり不必要にドンと大きな音をたてて判をつきながら、ハネムーンかと聞いた。
俺は苦笑し、あいまいにやりすごそうとしたが、連れの女は澄んだ声でためらいなくイエスと言った。

「ごめんなさい。嘘ついちゃった」

搭乗ゲートに向かいながら、彼女が舌を出す。

「別にいいけれど、どうして?」

真摯に答えなければならない場面ではなかったので、本当に気にしていないつもりだったが、やけにはっきりと答えた理由が知りたかった。

「……これも言ってみたかっただけ、よ」

くすりと笑う笑顔に少し影が射し、俺は質問したことを後悔した。



*****

帰りの飛行機の中では寝たふりを決め込み、ひたすら目を閉じていた。彼女もあきらめた様子で声をかけてはこなかった。
目をつぶって時をやりすごせば、脳裏によぎるのは光の顔ばかりで。気づけば何日、あいつの声を聞いていないのだろう?
限界だった。

母国の空気を吸うと、すぐに俺は携帯の電源を入れた。彼女を送るだとか先に帰すだとか、そんなことは頭に浮かんではこなかった。
はやる気持ちのまま、液晶画面に光の電話番号を表示させる。
今が早朝で相手の迷惑になるかもしれないことや、電話をした理由をどう説明するかは全く考えていなかった。
ただ、声が聞きたくて。

「光?元気か?今日そっちに帰るから……」

何の考えもなく発した言葉は、光を絶句させた。かつてない長さで連絡を絶っていたことを考えると、当然だった。
状況が把握できないらしい光の質問に、何を隠すでもなくまともに答える。
女との旅行帰りで空港にいるという俺に、ついに光がキレた。

――俺が……っ。どんな気持ちで……っ

荒ぶるその声に、はたと気づく。
放置された光の気持ちなんて、少し考えればわかるはずだったのに、その余裕すらなかったんだ。

ふるえる湿った声。電話越しの光の思いが、痛いくらいに感じとれる。
今ここで話したのでは埒が明かない。同伴した彼女も待たせている。いったん場所を変えなければ。

「帰ったら、連絡するから……」

そういった俺に、光が低い声でうなる。

――そこで待ってろ

ここで?こんな時間に?
光がわざわざ来ることはない。そう思って否定の言葉を口にすると、

――待ってろっつってんだよ!!

ものすごい剣幕だった。こんな光は見たことがなかった。
勢いに押されて何も言うことができないまま、通話は切られていた。立ち尽くす俺の手の中で、無機質なかたまりが規則的に機械音を発し続けていた。

「……修羅場みたいね」

察した女が肩をすくめてこちらを見ていた。

「ああ……ちょっとな。こんなところを見せてごめん」
「私はこのまま帰るし、別に構わないけれど。でも……」

スーツケースの持ち手に手をかけながら、視線をそらす。

「ちゃんとしたほうがいいと思うわ。礼二の本命なんでしょ?」

――本当に、女という生き物は勘がいい。良くも悪くも。

「……ああ。ありがとう」

謝罪の意をこめて、華奢なその肩に手を置いた。

「ちゃんとするよ。どんな結果になるのかはわからないけれど」

向き合おうと思った。はじめて俺に感情をさらけ出した光に。
結果はどうであれ、俺も本気でぶつかってみようと思った。

もしかしたら俺は、最初からこうなることを期待して、逃げ出したのかもしれない。
光と駆け引きなしの関係になりたい。
全てを崩壊させる覚悟までしなければ、向き合えなかった。
だって光には、あいつがいるのだから。

光の到着まで、どのくらいだろう?
何も考えずに待つことを決めて、俺は壁にもたせかけたスーツケースに体重を預けた。



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