複数恋愛

19





*****

冷たい大理石の床はきれいに磨かれている。
いかにも大企業といった風なエントランスを抜け、よくとおる声の受付嬢に、呼び出してもらいたい相手の名を告げる。

面識はあったが、直通の連絡先は交換していなかった。不躾なのは承知で勤務先におしかけてしまった。
部署なんて聞いた覚えはなかったので、本人にたどり着くまでに時間を要した。
面会の目的などを細かく聞かれたので、適当にごまかす。
せめてきちんとした服装で来るべきだった。こんな大きな会社に普段着での来訪は、不審者に見られてもしかたがない。

内線通話の後、少々お待ちくださいと、小難しい表情の受付嬢が言う。
よかった。本人に拒否されたら泣き寝入りするしかなかった。
場違いな自分を申し訳なく思いながら、俺はやたらと広くて寒々しいロビーのソファに浅く腰かけた。

「ご無沙汰してます」

大人の男にしては高めの声。久しぶりに聞いたけれど、見た目にとてもマッチしている。

「こちらこそ、ご無沙汰していたのに突然すみません」

まずは落ち着いて非礼を詫びると、相手の男は大きな瞳を柔らかく細めて微笑んだ。

20代も半ばなのにパリッとしたスーツが借り物のように見えてしまう童顔の男、槙尚宏。
ゆるい巻き毛は天然だと雅人が言っていた。
こぼれそうな瞳に長い睫毛。小柄なこともあって愛玩動物のようだ。
俺とは全くタイプのちがう、雅人のもうひとりの恋人。

ゆるめた頬を引き締め、尚宏さんはすぐに本題に入った。

「用件は聞かなくてもわかります。雅人のことですよね?」
「何か聞いてますか?うちを出て1週間になります」

相手が事情を知っている様子だったので、単刀直入に尋ねた。

「僕も詳しくは知らないんです。ただ、遠方へ出かけるのでしばらく会えないと言われました」

「しばらく……?」
「ええ。海外旅行にでも行くような口ぶりでしたが……」

くるくるとよく動く丸い瞳が、少し曇る。

「僕はそのまま鵜呑みにできませんでした」
「尚宏さん……」
「遠まわしに……別れを告げられたのだと感じました。行き先を教えてくれなかったから」

切なそうに揺れる瞳は、嘘をついているようには見えない。

「それが1週間前です。出て行かれた日と同じ日なのでしょう?」
「……そう……ですね」

俺は項垂れた。
何の手がかりも得られなかった。
いや、違う。雅人が自らの意志で姿を消したことだけは確実になった。
後は……行き先。

「何かわかったら、連絡しますので」

お互いそう言い合って連絡先を交換し、尚宏さんの会社を後にした。



勤務先だった絵画教室に問い合わせてみると、なんと1ヶ月も前に辞めていたとのことだった。
理由は留学。前々から絵の勉強をしたいと言っていたらしく、退職に際して教室ともめることもなかったという。
そんなに前から、雅人は俺との離別を考えていたということだ。それを把握すると、もう行方は捜さないほうがよいのではないかと思えてくる。
本気で俺から離れたいと思っている雅人の信念を、尊重するべきではないのか?

けれど俺は、あきらめきれなかった。
高校時代に一度だけ遊びに行ったことがあった雅人の実家にまで行き、その消息を尋ねた。
数年ぶりに会った雅人母の答えは、一瞬で俺のかすかな期待を打ち砕いた。

「行き先くらい言ってから行けばいいのにねぇ」

ため息をつきながら彼女はつぶやいた。

「向こうでの生活が落ち着いたら連絡する、ですって。心配するこっちの身にもなってほしいわよね?」

共感を求められたが、全くそのとおりだ。そう思うと同時に、申し訳なさがこみ上げてくる。
雅人をそんな状況に追い込んだのは、まぎれもなく俺なのだ。



*****

雅人につながる手がかりが全くつかめないまま、時間ばかりが過ぎていった。
礼二とも連絡を取ってはいない。あんなふうに別れを告げられては、追いすがる勇気もわいてこなかった。

仕事と家の往復。最近は、帰り道の途中でコンビニに寄り、3種類の弁当をローテーションするのが習慣になっていた。
今日はのり弁。何もかもがいっしょくたにご飯の上に乗せられていて、時間短縮もでき、見るからにお手軽なところが気に入っている。

マンションに帰ると、それでも習慣でただいま、と口に出る。答える者のいない真っ暗な闇が、俺を静かに迎えてくれる。
ぱちりと灯りをつけると、変わらないリビングのたたずまい。
雅人が引き払ったのは主に雅人の個室にあったものだったので、俺の生活空間の中でそれが孤独に直結することはなかった。

ソファに座り、クッションを胸にひざを抱える。ここを空けていると妙に寒さが身にしみる。
12月。気づけば季節は冬になっていた。
最近はテレビもつけず、考え事をしてばかりいる。
雅人のこと。礼二のこと。ふたりを大切だと思う気持ちに、今でも変わりはない。



*****

スクーターの吐き出す煙がひときわ白い。
大学生のバイトスタッフが、追試だとかで休みを取った。配達に出るのは久しぶりだった。
ビジネス街の一角にある建築事務所に宅配の品を届け、仕事場にカレーのにおいが充満しそうだな、などと考えながら信号待ちをしていた。

横断歩道を渡る男女のカップルが、数組。手をつないだり腕を組んだり、仲睦まじそうな様子に、この先がイルミネーションスポットだったことを思い出す。
そうか、世間はクリスマスか。
恋人同士って、何なのだろう。世間一般では、この人たちのようにお互いをわき目もふらずに見つめあうものだよな。
――1対1の関係で。
お互いがお互いを、「あなただけ」だって言い合える。それが普通。
全力でひとりにぶつかってこなかった自分を、今さら恥じた。

そもそも恋人というカテゴリの中で、礼二と雅人を同列に考えるべきではなかった。
どちらを選ぶ?それは愚問だ。
俺が心を焦がして求めた相手はひとりだけ。
はじめから答えは出ていたのに……。



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