複数恋愛

20




11章 旅立ちのとき(Side雅人)




ずっと考えていたことだった。
勤め先に退職をほのめかしたのは、もう3ヶ月も前になる。
外国で絵の勉強をしたい、ひとまわり大きくなって帰ってくるつもりだと、前向きを装って説明すると、教室の担当者は諸手を挙げて賛成してくれた。
本当のところは、ただ逃げたい一心で、前向きどころではなかったのだけれど。

自分の発言には責任を持たなければと、その後すぐに留学の準備を開始した。絵の勉強をしたいとは言ったものの、まず必要なのは語学であることがわかり、語学留学を検討することにした。専門的な留学先を探すより、そのほうが格段に簡単だった。ぼんやりと絵画の修復について学んでみたいと考えていた俺は、留学先にイタリアを選んだ。

語学学校とステイ先を斡旋されたその日の夜だった。
――光にその話を聞いたのは。

「話があるんだ」

深刻そうでいてどこか哀しげな目をした光にそう切り出された俺は、とりあえず座って、と言い残してキッチンに立った。
ふたりぶんのインスタントコーヒーをペアのカップに淹れ、リビングに持ち込む。
光の好みは、ティースプーン山盛り3杯の砂糖とたっぷりの牛乳。コーヒー本来の味を力いっぱいマスキングしてしまうほどの味付けだ。それを無意識のうちに手が動いて作ってしまう。それだけ俺と光の過ごした時間が長かったということだ。

光の様子がおかしいことに、数日前から俺は気づいていたのだけれど……。

「礼二と…、別れたんだ」

そう来るとは思わなかった。
いつものように、音信不通の期間がやってきて、それが少し長引いているだけだと思っていた。

「どうして?」

理由を聞かずにはいられなかった。
すると光は一瞬ひるんだように見えた。

「お前のは本気だろうって言われた」

光の言い放った台詞に、思考が停止した。
礼二さんの悪い癖は浮気だけれど、光が俺といることは本気だって……。それを、礼二さんが……?
にわかには信じられず、俺は頭を抱えてうつむいた。

あの、お気楽に人生を楽しんでいる自由な礼二さんが……?それって、暗に光に本気だったと言っているようなものだろう。
それならばなぜ、光は礼二さんのもとに行かなかったんだ?あれほど好きだと言っていたじゃないか――。

「返す言葉がなかったんだ」

そう言うくらいには、光も俺に本気だったって、思ってもいいの?
小さな希望がポッと目の前に灯る。
けれどそれは、光の言葉によって簡単に吹き消されてしまう。

「確かに俺は、雅人のことは本気だったよ、……でも」

言葉を選ぶように、光は視線をさまよわせる。

「雅人に対する気持ちと、礼二に対する気持ちは違ったんだ。ふたりとも好きだと……、俺は勘違いしてた」

吐き出す声は真剣そのものだ。

「いや、好きだったんだ。好きの種類がちがっただけ。それがふたつとも恋だと思っていたのが、間違いだった」

次々と投下される真実の爆弾に、身体が粉々に砕けそうになる。
――もう……、やめてくれ。
これ以上俺を、突き落とさないでくれ!
なかなか顔を上げられないでいる俺に、光は容赦なくとどめをさした。

「ごめん。雅人の気持ちには応えられない。……俺を抱きたいんだろう?」

礼二さんにはめちゃくちゃに抱かれたいと、そう言った直後のその口で……。



頭を抱えていた手をひざに下ろすと、俺の意識のそとでそれはこぶしを作った。握り締めた両手をにらみつける。
ぼやけた視界がかすんだ思考とシンクロし、俺をどこか遠くへと導いてゆく。
このまま耳をふさいでしまいたいのに、光の声は残酷に俺の鼓膜をふるわせた。

「……それでも雅人が必要だったんだ」
「ごめん。ずるい俺で」

ずるいよ、お前は。ずるいで片付けようとしていることが、ずるい。
俺は、心を決めた。
ずるくて素直な光。大好きだった。愛してたよ。

この想いが最後まで一方通行だったこと、俺は知っていた。
早く手を打つべきだったのは、知っていた俺の方だったのに。
ごめん光、余計なつらい思いをさせて。
だけど、もう解放してあげるから……。

今ならまだ、間に合うと思うんだ。
礼二さんと、よりを戻して幸せになって?
心の狭い俺は、言葉に出して背中を押してあげることはできないけれど。
最後に、一度だけ……。

触れた光のくちびるは、これまでで一番甘美な味がした。



*****

「よし……」

何もない空間というのは、どうしてこうも音を反射させるのだろう。
何気なくつぶやいた小さなひとりごとさえも、不必要に部屋中に響いた。

自分の個室の家具や荷物は、あらかた売るか捨ててしまった。
といっても、光に気取られないようにそれをする必要があったので、事前に見積もりに来てもらった上で日付を指定し、一気に全てを回収してもらった。
光に秘密にしなければならない理由は特になかったのだが、逆になぜ出てゆくのかと聞かれた際に答えに困るから、というのが理由と言えば理由だった。

今日俺は、ここを出てゆく。
光とふたり暮らした部屋を、じっくりと眺める。この時間、光は仕事で、帰ってくることはまずあり得ない。
やることはやったし、しばらくの間思い出にひたるのも悪くはない。

同居を言い出したのは俺だったけれど、俺たちのそれは、はじめから同棲という雰囲気ではなく、シェアハウスと言ったほうがしっくりくるものだった。
友人としての、共有空間。それだけならば、うまくいったのだろう。
自分の気持ちをコントロールできなかった自分をうらめしく思う。
光を失うことは、失恋と同時に親友を失うことでもあった。

ため息をつく。考えても仕方のないことだ。
今さら戻れるかと問われたところで、できるはずがないのだから。
光からの逃亡。後ろ向きなようでいて、案外これは前向きな行動なのかもしれない。
何もしないでいるよりは。
これ以上ここにいても、虚しさしかこみ上げてはこないだろう。
光と過ごした日々をまぶしく思い出せるようになるには、相当の時間がかかりそうだった。

玄関に向かう。
靴を履き、名残惜しさを振り切るようにドアに手をかけようとして、ふと気が付いた。
脱いだ靴がお互いにそっぽを向いている。それを放置し、俺はキッチンに向かった。
忘れ物だ。これは持って行かなければ。
揃いのマグカップを片方手に取る。
絵柄も色も、全く同じものだったけれど、俺のカップにだけ底の部分にうっすらとひび割れにも満たないスジが入っていた。

礼二さんにもらったこのカップは、ここでの俺たちの生活を象徴しているように思えて……。
アンバランスで、危うい関係。俺が離脱することで、どうなるものでもないのかもしれない。

この後尚宏にも、これから長期不在にすると告げるつもりだ。
俺は、全てをリセットする。
玄関のたたきに降りて散らばった靴を足の先で寄せ、つま先で床を蹴ってそれを履いてから、今度はためらいなくドアを開けた。
明日へと続く、ドアを。



Copyright(C)2014 Mioko Ban All rights reserved. designed by flower&clover
inserted by FC2 system