複数恋愛

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12章 それぞれの選択(Side光)−1




――わかった。行く。
小さな液晶画面にたったそれだけの短い返信メールを表示させたまま、俺は携帯を握り締めた。
礼二に、会える。高揚する気持ちよりも、安堵のほうが大きかった。
今は早く、顔が見たい。まだ俺の世界に礼二がいてくれたことを、この目で確認したい。

早く、早く。
気を抜くと目的地もないのに駆け出してしまいそうだった。
俺は身を投げ出すようにしてソファに突っ伏し、はやる気持ちを鎮めようと努めた。

どのくらいの時間が経過したのだろうか。
リビングのソファに埋もれたまま、ぎゅっと目をつぶっていた俺の耳に、軽快なチャイムの音が飛び込んできた。反射的に立ち上がり、玄関までの短い距離を足をもつれさせながら、俺は走った。

「よ。ひさしぶり」

ドアを開けると、なつかしい声と一緒に、今でも愛しいひとの姿が飛び込んでくる。瞬間、その身体にしがみつきたい衝動に駆られた。
寸でのところで踏みとどまり、代わりに俺はこぶしを握った。

「礼二……。ありがとう」

焦がれたその顔をいざ目の前にすると、何を話せばよいのか全くわからなかった。
場違いな台詞が冷たい玄関に響く。礼二は困ったように眉を寄せただけだった。

「え……と、上がって?」

この部屋に礼二を招くのははじめてだ。雅人がいなくなったからというわけではないが、なんとなく部屋に上がってもらったほうが、現状を説明するのに好都合のような気がした。

「え?いいのか?」

目を丸くする礼二。

「どうぞ。雅人ならいないよ」

雅人の失踪を知らない礼二は、やはり気を遣ってくれたのだろう。

「お邪魔します……」

小声でそう言ってから、奥をうかがうように足を踏み入れた。
恋人を―今となっては元恋人だが―部屋に招いて、こんなふうに恐縮させてしまうなんて、自分のしてきたことが今さらながら悔やまれる。それも含めて、今日はきちんと話をしよう。
所在なさげにリビングの入り口に立っている礼二に、ソファをすすめる。遠慮がちに腰掛けたのを確認してから、俺はキッチンに向かった。

「コーヒーでいい?」
「ああ、なんでも」

電気ケトルのスイッチを入れ、インスタントコーヒーのふたをあける。
はじめて招いた特別なひとなのに、気の利いたものを出すこともできない自分に、苦笑がもれる。ほどなくして響く乾いた音とともにお湯が沸いた。
湯気ののぼるカップを両手に、リビングへ向かう。

「どうぞ。インスタントで悪いんだけど」

言いながら自分も礼二の隣に腰を下ろす。
ガラスのテーブルにならんだカップは、今日はペアのものではない。

「……まだ使ってくれてたんだな」

自分の贈ったものに気づいた礼二が、呆けたようにつぶやいた。
その言葉の裏に、使ってくれてありがとうといった感謝の意は感じ取れない。

「うん……。ひとつになっちゃったけど」

どう切り出すか悩んでいた俺には、好都合だった。


「ひとつ……?」

いぶかしげに俺の顔をのぞきこむ礼二。
話さなければ。緊張のあまり、のどがひゅっと鳴った。

「雅人が……、いなくなったんだ」

告げてからいったん目を伏せる。礼二の反応を知るのが怖かった。
今さら何を、と言われそうで。

「……大丈夫か?」

だけど返ってきたのは、そんな優しい言葉だった。
俺は顔を上げた。やっぱりきちんと話そう。

「いなくなって1ヶ月になる。今日までなんとかやってきたから、大丈夫」

質問に対する答えを口にすると、本当に大丈夫な気がしてきた。言霊とはよく言ったものだ。

「俺が礼二と……、別れたって話したからだと思う。何も言わないで、俺が仕事に出てる間に自分の荷物全部引き払っていったんだ。あのマグカップも」

「何も言わずに……?」

状況をうまく把握できていない様子の礼二。

「そう。自分が引けば、俺が礼二とよりを戻すって考えたんじゃないのかな、雅人は」
「よりを……?」

雅人……。最後まで俺の背中を押してくれたお前には感謝してる。
だからもう一押し。俺に勇気をくれないか?
深呼吸をひとつ。しぼり出すように言葉をつなげた。

「雅人は知ってたんだ。俺が礼二を……、礼二だけを愛してるって」

言い切って俺は、また顔を伏せた。
今度こそあきれられるかもしれない。

「ごめん、今さらだよな?俺自身が気づいてなかったんだ。雅人に対する気持ちと礼二に対する気持ち、違いがあるってわかっていたのに。……両方恋だって勘違いしてたんだ」

「光……」
「よりを戻そうだなんて、俺に言う資格はないのかもしれない」

がんばれ、と自分を叱咤する。目を見て告げるんだ。

「礼二が好きだ。最初から俺は、礼二だけを見てた。今でも気持ちに変わりはない。雅人がいなくなって淋しい気持ちはあるけど、それでもやっぱり礼二のことばかり考えてた」
「……」

無言の礼二は何を考えているのだろう。
構わず俺は続けた。

「ごめん、困ってるよな?ほんとごめん。でも、これを伝えなきゃ、出て行った雅人にも申し訳が立たないと思ったんだ……」

結果はどうであれ、伝えなきゃって思ったんだ。
でも、願わくば……。

「礼二が欲しい。俺をひとりにしないでほしい」

望みを口にすることくらいは許してくれないかな。

「ごめん、これが今の俺の本……音……っ!」

言い終わらないうちに強い力で抱きすくめられた。首筋に礼二の息遣いを感じる。

「お前……、あやまってばかりだな」

ささやく声が、ダイレクトに鼓膜を揺らす。

「だって……っ!」

抱きしめられたままで体重をかけられた。礼二の肩越しに天井が見える。
押し倒されている、と気づいたときには、礼二の顔がすぐそばにあった。
しばらくぶりにもかかわらず、俺は無意識に目をとじた。
くちびるに触れた礼二のそれを、神経を集中させて感じようとする。

一瞬で俺は、その感触を鮮明に思い出した。同時にいつもの礼二のキスの手順も、映像つきでよみがえってくる。
まず羽のように優しく止まり、それから確認するように舌先でくちびるの合わせ目をノックされる。ことわるすべをもたない俺が、薄くくちびるを開ければ、礼二がかすかに息をもらし、それが深いくちづけの開始の合図。
頭の中のシミュレーションどおり、くちびるがノックされる。その瞬間、俺はハッとした。

「ごめん……やっぱりここじゃ……」

指先で礼二を制止した。
拒絶されたと感じたのか、礼二が固まっている。

――ここには、情事を持ち込まない。
たとえいなくなってしまっても、雅人と交わした約束だから。
心は礼二にあるとしても、雅人の存在した過去までも否定する気には、どうしてもなれなかった。

「どこか……べつのとこ……」

懇願する俺を見て、礼二の表情がふっとゆるんだ。困ったように眉を寄せ、片方の口の端を上げる。

「……わかったよ。行こう」

そう言って礼二は立ち上がり、俺に手を差し出した。



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