複数恋愛

23





*****

大きなダンボール箱が5つ。まだまだ作業は序の口だ。
その日まで、あと2日。俺一人の荷物なんて知れていると、たかをくくっていた。

「ちょっと休憩」

何気なくつぶやいた言葉が、誰に拾われることもなくひとりごととなって虚しく宙に浮いた。雅人の不在には慣れたつもりでいても、寂しさが胸に迫る。
財布をつかみ、玄関を出る。ひとりの作業が思っていたほど捗らず、気分を入れ換えてくるつもりだった。

喫煙者なら一服すれば気がまぎれるのかもしれないが、あいにく俺は嫌煙家だ。雅人もその部類に入り、その点でも同居生活は文句なく快適だったと思い出す。
礼二は喫煙者で、俺と一緒のときには場所を変えてくれる。嫌煙家のはずなのに、なぜだか礼二のタバコの香りは嫌いじゃなかった。キスのときに感じるほんのりした苦味も、俺にとっては刺激的に感じた。

ライフスタイルの似ていた雅人は、ともに生活する相手としては申し分なかった。
マイナスポイントは数あれど、それをプラスに変えてしまうことのできる礼二とは、最初から立ち位置が違っていた。それに気がついたのは、つい最近だったけれど。

雅人が俺の前から姿を消し、俺が礼二に想いを告げてから、1ヶ月が経った。
その間に俺は、部屋を解約して引っ越すことを決めた。雅人の荷物はなくなっても気配の残るこの部屋にとどまっていては、俺はいつまで経っても雅人に甘えたままになってしまうと思ったからだ。
いつか雅人が帰ってきて、そのときの俺をまるごと受け入れてくれるのではないか。そんな期待は、みじんたりとも持ってはならない。
雅人だってひとりの人間だ。むしろここまでよく耐えてくれていたと、感謝するべきだ。


引越し先は、仕事場に近いワンルームマンションに決めた。
礼二の部屋に転がり込むことも考えたが、今の俺にはひとりで新しい生活をはじめることが必要だという結論に達した。
誰かにすがるばかりでは、自分の成長は望めない。俺は俺自身の力で、この状況から脱却しなければ。

考えごとをしていても、慣れた道は無意識に歩けるものだ。赤信号ではきちんと止まり、歩道を走る自転車はよけた。
コンビニに入り、雑誌コーナーの前に立つ。気を紛らわすには漫画雑誌のひとつも買って帰りたいところだが、引越し作業中の今は荷物を増やすことがためらわれた。申し訳ないけれど立ち読みでもしようと、目だけで並んだ表紙を物色する。

上段の雑誌に手をのばしたときだった。

「え……?」

目の前を通り過ぎたシルエットに見覚えがあった。
見覚えなんてものじゃない。あれは……、雅人だ。
のばしかけた形のままで空に浮いた腕が疲労を訴えるまで、俺は動けずにいた。思考が完全に停止し、脳がするべきことを正しく指示できない。

ハッと我に返りコンビニを飛び出したときには、その姿はどこにも見当たらなかった。
思い立って自宅に向かう。ここを通りかかるということは、あの部屋に向かった可能性が高い。

「雅人……!」

無意識に名前を口にしながら、俺は走った。徒歩5分の距離が、ずいぶんと遠く感じられた。
非常階段を駆け上がり、玄関ドアに手をかける。
鍵は開いてはおらず、ドアの向こうに人の気配もなかった。

「雅人……帰ってきたんじゃないのか……?」

靴を脱ぐのももどかしく部屋に上がった俺は、たいして隠れる場所もない部屋をすみずみまで探して回った。けれどやはり、雅人の姿はない。期待するだけ無駄だったかと肩を落とす。
もしあれが本当に雅人だったとしたら、この部屋に用があったはずだ。荷物もないのに、何の用が……。

「……!」

閃光に射ぬかれたれたように身体が跳ねた。履きかけの靴で玄関を飛び出す。
さっき駆け上がった非常階段を、転がるように駆け下りた。
目指すは郵便受けだ。もしかしたら雅人は、何かメッセージを残しているかもしれない。

ダイヤルロック式のその箱は、目当ての数字に合わせそこなうと最初からやりなおしだ。
気が急いて指がうまく動かなかった。3度目の正直でカチリとロックが外れる。
開けてみれば思ったとおり、そこには封書があった。
無地でうす緑のその封筒に、雅人らしさがあらわれていて、懐かしさがこみあげる。
雅人からの手紙。はじめてもらった手紙だ。
これまでの焦燥感はどこへ行ったのか、その場で封筒を開ける勇気が出なかった。
とりあえず、部屋に戻るまでの時間で落ち着きを取り戻そう。手紙を握りしめ、エレベーターを呼ぶ。
じっとりと汗ばんだ手で、紙がふやけてしまいそうだった。

リビングのソファに腰掛け、目の前のテーブルに置いた手紙を見つめる。
表書きは、『高田光様』となっている。差出人の名前はないが、筆跡で雅人からのものだということはすぐにわかった。
いつまでも逡巡していても仕方がない。震える指先で、その封を開けた。
のり付けがうすかったのか、紙をちぎることなく開封することができた。
中から折りたたまれた便箋を取り出す。
一言メッセージでもあれば、と考えていたのだけれど、それは予想外に厚かった。
心して読まなければ。気持ちを引き締める。

カサリと折りたたまれた紙を開く。
そこに並んだ雅人らしい小ぶりの整った文字に、内容を読まないうちから胸のつまりを覚えた。


――光へ

表書きの他人行儀な感じとは違い、中身は俺のよく知る雅人の口調だった。

光へ

突然出て行って、ごめん。まずは謝らせてほしい。
光に何も言わないで出て行ってしまったことがどうしても引っかかって、往生際わるくこんな手紙を書いてしまった。
自分勝手に出て行ったくせに、君がどうしているだろうかと考えない日はないよ。
光に関しては、本当に女々しい自分が嫌になる。結局逃げることしかできなかった。

今どうしてる?
礼二さんとはよりを戻せたのかな?
きっと大丈夫だと俺は信じている。だって君たちは、どう考えたって相思相愛なのだから。
言ってあげられなくて、ごめん。でも、俺の気持ちも考えてみてくれないか。光のことをずっと好きだった、俺の気持ちを。
謝ってばかりな上に、こんなにまで女々しい自分を晒してしまうなんて、本当にどうかしていると思う。君のこととなると、俺は自分が自分でなくなるんだ。
君から逃げたと俺は言ったけれど、もちろん逃げてばかりではいないつもりだ。
イタリアへ渡ろうと思っている。前から絵の修復を学びたいと考えていたんだ。
とりあえずは語学留学からはじめて場所と人に慣れたら、あらためて勉強させてくれる工房を探すつもりだ。

実家にも行き先は言っていない。もちろん尚宏にもだ。
落ち着いたら、滞在先は連絡しようと思っている。でも、いつになるかはわからない。落ち着かせなきゃならないのは、生活と気持ちの両方だからね。
こんなこと言ったって、光を困らせるだけだってわかってる。
でも、ごめん。大好きな君の前から無言で姿を消すことはできなかった。
好きだった。愛していた。こんな手紙を書くくらいだから、きっと現在進行形でそうなんだろうな。
でも、必ず過去形にしてみせる。それができたら、また君の前に姿を見せてもいいかな。
返事はもらえないと知っていて、こんな質問してごめん。
何度もあやまって、ごめん。

部屋は解約してくれないかな。
俺とのつながりは、一切なくしたほうがいいと思うんだ。
それで、礼二さんと幸せに。
今はまだ本心では思えないけれど、光の幸せはどこにいても祈ってるから。

元気で。

宇根雅人


半分読み進めたあたりから、視界がぼやけて文字がうまく追えなくなった。雅人の気持ちが痛いほど伝わる手紙だった。
何度も綴られたごめんの言葉が胸に突き刺さる。謝りたいのはこっちのほうだ。

鈍感は罪だ。
雅人の気持ちに気づかなかったとしても、少なくとも自分の気持ちには気がつくべきだった。俺がそうできていれば、雅人をこんなにも傷つけることはなかったかもしれない。

礼二と幸せに……、か。俺はもう、その第一歩を歩き始めている。
ありがとう。好きになってくれて。
出せない返事には、そんな陳腐な言葉しか思い浮かばなかった。

部屋を解約してくれ、だなんて……。
もう引越しの手配も済んでいるよ。お前もそう考えていたのか。
どこまでも気が合うな。

気が……、合っていたな。
それを恋だと錯覚してしまうくらいに――。



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