塩味ハニームーン

18




―side飯田正成


拓海の新居から地元に移動する列車内では、さすがに一日の疲れからかお互い無言だった。
ひたすら続く黒い景色を眺めるでもなく見ていると、拓海の気配が近づいた。

「……どした?」

聞き終わる前に肩に感じた重み。
寝ちゃったのか。疲れたもんな。
閉じた瞼に口づけを落としたい気分だったが、寸でのところで自重した。
俺の肩を枕に眠る拓海。今夜はそれぞれの実家で過ごす予定だから、一緒には眠れない。
今でも時折見とれる無垢な寝顔を、今のうちにしっかり眺めておこう。列車に揺られながら、そんなことを考えた。

すっかり寝入った拓海を到着の5分前に起こすと、肩借りて悪りぃ、と照れくさそうに笑った。
肩くらい今さらな関係だけど、それを口に出して指摘するとどういう反応が返ってくるのかは、容易に想像がつくので止めておいた。お互いに今日は、これ以上疲れない方がいい。

拓海と別れ、街灯に照らされた道を歩いて祖父宅へ向かう。
こんな時間だし、祖父が起きているかどうかわからないが、とにかく帰ってきた。

「……ただいまー」

玄関での第一声は、決めていた。

「おかえり、マサ」

シワだらけの顔をほころばせて祖父が出てきたとき、不覚にも泣きそうになった。
ただいま。おかえり。
当たり前のコールアンドレスポンスが、こんなに心に染みるなんて。
感情の高ぶりに気恥ずかしさを感じた俺は、風呂入ってくると祖父に告げ、早々に自室に引き上げた。
変わらない文机に手を置き、窓の外を見上げる。
満月は明日だ。



清々しい朝だ。
カーテンを引き、開けたままでいた窓ごしに胸一杯の空気を吸い込む。
もちろん夏ならではの熱波の予感を含んでいるものの、太陽はまだ柔らかな光を放っている。

早朝。日没までどれだけ時間があるんだと、起きてすぐに俺は苦笑した。
それでも……。気になって仕方がなかったのは、今日の天気だ。晴れの予報ではあったけれど、自分の目で確認しなければ気が済まなかったんだ。
うん、これなら。きっと今夜は、満月がきれいに見えるはずだ。
満足して俺は、開け放った窓際を離れた。

今夜、あの光の道を眺めながら、拓海に何を話そうか。
たくさん会話を重ねてきたし、今さら改めて話すこともない気はする。
ただ、拓海と二人、今年も変わらずあの海で……それだけでいいんだ。
でも、今夜。拓海に話そうと、決めていることがひとつだけある。



日暮れ前。いつものように、高校の最寄り駅で待ち合わせても良かったのだけれど。
拓海が言ってた、「お祖父さんに会ってみたい」を実現させるべく、こっちの最寄り駅で待ち合わせた。
初めて二人で歩く、祖父宅への道すがら。拓海は幾分緊張ぎみなのか、口数が少なかった。
手土産だと羊羮の紙袋を提げてきていたが、歩きながらそれを何度も左右の手に持ちかえている様子も、緊張を伺わせた。
対する俺は、祖父宅がいかに古く非現代的であるかなどを、浮かれた気分で話し続けていた。

祖父に拓海をどう紹介するかは、以前から決めていた。
ガラリと引き戸を開け奥に向かって、ただいま、と声をかける。
拓海を連れてくることは事前に告げてあったので、祖父はいそいそと出てきた。

「おかえりマサ。はじめまして。いつも正成が世話になっております」
「あ、はじめまして。広野拓海です。今日は突然お邪魔してすみません。これ……」

拓海が、持っていた紙袋を差し出す。

「あぁ、ありがとう。気を遣わせてすまないね、広野くん」
「あ、いえ。お口に合うかどうかわかりませんが……」

大人びた口調で話す拓海に、もう俺たちは子供じゃないのだと思う。

「じいちゃん、拓海はさ」

兼ねてから決めていた。

「俺の大切な……相方なんだ」

パートナー、という言葉を考えていた。
ただ、古い時代の祖父に伝えるには、こっちの方がすんなり入りこんでくれるんじゃないかと思って。
それで、相方。
微笑みながら拓海を見ると、目を丸く見開いて固まっていた。まさか俺が、そんな紹介の仕方をするとは思ってもみなかったのだろう。
俺は当然だろ、といった気分で拓海に向かって頷き、向き直って祖父の反応を伺った。

「そう。大切な……相方ね。これからも正成をよろしくお願いしますよ、広野くん」

予想どおり祖父は、そう言って俺たちに笑いかけた。
ほらね。受け入れられたでしょ?
心の中で俺は、拓海に向かってそう語りかけた。

お持たせを悪いね、と言いながら祖父が切ってくれた羊羹をつまみ、冷たい麦茶を流し込む。
眼前には、祖父が丁寧に世話をしている庭。
俺たちの座っている庭に面した廊下は、さながら縁側の体だ。

「なんか落ち着くな……」

拓海がふと呟いた。

「でしょ?日本建築の良さ、拓海も分かってくれた?」
「建築……は正直よくわかんね。たださぁ……」

視線を一周させると、拓海は笑った。

「うん。なんとなく、だな」
「えぇ?何よそれ。もうちょっと何かない?」
「ははは。ま、傍にお前がいて、お前が落ち着いていられる環境がここにあるって思うからかな」
「……拓海」

ニッと笑ってあいつは言ったけれど、その表情の軽さとは裏腹に、言葉にはずっしりとした重みを感じた。
俺のこと……。
拓海の目線は、俺がどういう状態かを常に気遣ってくれている。
そうだな、俺も。

「うん、落ち着くなぁ……」

祖父は挨拶を交わしたあと、俺たちの会話に加わろうとはしなかった。
ただ、祖父が片付けをしているらしい台所から、時折見守るような視線を感じた。そういう人なんだ。

「じいちゃん」

祖父の幾分丸くなった背中に呼び掛ける。

「そろそろ出かけてくるよ。遅くなるから先に寝てて」

遅くなる、と俺が言葉にした瞬間、隣の拓海がピクリとした。
そういう意味じゃないんだけど。
拓海が祖父に、また来ますと挨拶をしたのを見届けてから家の引き戸を開け、先に出るよう促した。

屋外に出ると、昼間の熱気が地面から立ちのぼり、足元にぬるい空気がまとわりつく。反面、顔まわりを吹き抜けてゆく風は、いくらかカラリと涼しく感じられた。
日は完全に暮れている。見上げた空には、キリリと光を放つ満月。
海辺に出るのが楽しみだ。



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