星はすべてを語らない。

03



冬曇りの白に、紫煙が消えていく。ちっとも紫色なんかじゃない、と思いながら、椎ノ木は目を細めた。誰に咎められるわけでもないけれど、休憩中に喫煙するとき、上着だけは着替えるようにしている。飲食を生業とする者の、最低限のマナーだ。自分専用の折り畳み椅子を軋ませながら、灰皿に吸い殻を押しつける。やっぱり禁煙した方がいいな。思うだけで、一向に実行にはうつせないでいる。

「坊っちゃん、もう一服しません?」

作業着にウインドブレーカーを羽織った相馬(そうま)が、タバコの箱をカタカタ言わせながら近づいてきた。トントンと慣れた仕草で1本覗かせ、箱を椎ノ木に差し出す。

「あ、じゃあ1本もらおうかな」

立ち上がりかけた腰を、再び落ち着けた。喫煙所での社員とのコミュニケーションは、案外重要だと椎ノ木は考えている。

相馬は50代も半ばの親世代で、それこそ椎ノ木を子供の頃から知る人物だ。事務所を遊び場にしていたころは、キャッチボールをしてもらったり宿題を見てもらったりしていた。年の離れた兄のような存在の相馬には、ずいぶん可愛がってもらったけれど、さすがに中学に上がってからは親の仕事場を避けるようになり、しばらく顔を見ることもなかった。

「まさかね、坊ちゃんが跡継いでくれるなんてね、俺は思いもしなかったねぇ」
「ははっ。またその話?」
「だって、いかにも今どきの子って感じになっちゃって」
「見た目だけ、見た目だけー」

朗らかに笑いながら、椎ノ木は、同じ話を繰り返す相馬の年齢に思いを馳せた。相馬さんもすっかりおっさんだな。子供のころは、面倒見の良いお兄さんだったのに。

当たり前の時の経過が、今の自分を創っている。親の会社を継ぐ気になったのは、大学に入ってからだ。なんとなく経営学を専攻し、ああ、自分は継ぐ気だったのだと気がついた。特に目立った葛藤も野望もそこにはなかった。淡々と、敷かれたレールの上に座りなおしただけ。

「反抗する理由もなかったしねぇ」

いつも吸っているものではない銘柄。これはすこし甘い香りがする。
自分を見つめる相馬が深くうなずいているのを横目に、椎ノ木は長めの息を吐いた。

「いつか坊ちゃんも、今の社長夫婦みたいになるんだろうなぁ。彼女とかいないの?」

昔のくだけた話し方に変え、プライベートの話を始める相馬。やっと親戚の兄ちゃんが顔を出した、と椎ノ木は苦笑した。

「いないいないー。紹介してよ」
「またまたー。これでいないわけないでしょ?あんまり遊びすぎると火傷するよ?」

昔から相馬には、説教臭いところがある。鬱陶しいと思ったころもあったけれど、仕事で忙しい両親の代わりになってくれようとしていたのだろうと、今では感謝すらしている。
相馬に言われるまでもなく、椎ノ木は両親の姿に自分を重ねて見ることがあった。同じ職場で朝から晩まで過ごしているというのに、家庭に戻ってもケンカらしいケンカをしている姿は見たことがない。子供の目から見ても、おしどり夫婦。
いつか自分も、誰かと家庭を持ち、あんなふうになるのだろうか。家業を継ぐことには抵抗がなかったけれど、これにはどうしても違和感が拭い去れないでいる。
常にそばにいてもペースを乱されない誰かの存在なんて、ありえない。恋人をつくることさえしなくなった今の自分に、所帯が持てるとは到底思えない。

立ち上がり、折りたたみ椅子を壁際に寄せる。夏場と冬場の喫煙所に、長居はしたくない。
事務所に向かう倉庫の前、椎ノ木はちらりと外を見た。ここを通ると、たまに顔を見せる親友の影に、期待してしまう。
しばらくあいつに会っていない。

定期的に顔が見たくなる。
仕立てのよいスーツをわざとだらしなく着崩しているのは、自分に気を遣ってのことだろうと、椎ノ木は気づいていた。高木は見た目に反して細かいところがある。
漬け物屋で一生を終えることが決まった自分と、華やかな業界で出世していくだろう高木。いつか離れてしまうだろうその距離に、知らず知らず怯えていた。

高木から向けられる好意には、当の本人より先に気づいていた。気づいた理由は単純なものだった。自分もずっと高木を見ていたから。
気持ちをつなげる気など、最初からなかった。応えてしまったら、終わりへのカウントダウンが始まる。
あいつはそのうち、住む世界のちがう人間になってしまう。つなぎとめておけるのは、今のうちだけだろう。



*****

テレビでは気象予報士が、桜の開花を告げている。年度末の慌しさの中でも、ちゃんと休みがとれた。これから久しぶりに来客がある。高木は朝から掃除に精を出していた。

「鍋納めしようぜー」
「は?なにそれ」
「んー。もう春んなっちゃうだろ?だからぁ、お鍋さん今年の冬もごくろうさんってねぎらうの」
「食べたいだけでしょ」
「そうとも言うねぇ」

馬鹿げたことを言い出した椎ノ木に、特に賛同もしなかったのだけれど、いつのまにかその会は行われることに決まっていた。それが今日というわけだ。
玄関のチャイムが鳴ると、高木は慌てて掃除機を壁ぎわに寄せた。

「え、椎ノ木ひとりなの?」

玄関脇に食材の入ったレジ袋を無造作に置き、スニーカーを脱いでいる椎ノ木。続いて誰も入ってこないことに、高木は驚いた。

「たまにはふたりっきりでお鍋をつつくってのもいいでしょお?」

レジ袋をかさかさ言わせながら、椎ノ木はしゃがんで冷蔵庫を開けた。脱色した髪の毛の、頭頂部付近が黒っぽくなってきている。
ふたりっきり。言葉に深い意味を見出さないよう注意を払いながら、高木はつぶやいた。

「てっきり後輩でも連れてくるもんだと……」
「後輩?職場の?ないない。俺、社長のご令息だから、誰もオトモダチになってくれないのよ」
「じゃなくて、大学の」
「ああ、あいつらね。うん、誘ってもよかったねぇ」

愛されキャラを地でゆく椎ノ木の後輩は、つい最近大学を卒業したばかりだ。自分の出身校の式には顔を出さなかったくせに、椎ノ木と連れ立って式典会場に行ってしまった。
なんだかんだで自分も可愛がっていた他校の後輩を思い浮かべながら、高木は腕組みをする。彼だったら……。自分が彼だったら、拒まれることはなかったのだろうか。

「……呼ぶ?」
「今から?呼ばないよー。ふたりでいいじゃん?」
「うん……」

上の空で返事をしながら、椎ノ木の手元に目をやった。缶ビールを何本か、冷蔵庫で冷やそうとしている。
高木の視線に気づいた椎ノ木が、クスリと笑った。

「足りない?」
「ううん、足りなかったら、ワインあるから」
「りょーかい。おっと」

開けっ放しの冷蔵庫が警報を鳴らす。慌ててドアをしめ、椎ノ木は立ち上がった。
こうして並ぶと、高木の目は椎ノ木の鼻の先あたりにある。微妙な身長差に、同性だということを実感する。

「高木、野菜そっちで切るぅ?」
「どっちでもいいよ」
「キッチン狭いから、そっちでやろ」
「狭くて悪かったな」

椎ノ木が高木の部屋にいるのは、珍しいことではない。実家暮らしの親友。一晩泊めるのをためらう理由なんてない。
慣れた様子で包丁とまな板を準備した椎ノ木は、再び冷蔵庫を開けた。昼光色のライトが、薄暗いキッチンをほんのり照らす。

「飲みながらやろ?」

野菜の入った水切りかごと、缶ビールを2つ持って、椎ノ木はリビングに現れた。

「鍋ができあがるころには、俺ができあがっちゃうかなー」
「なにそのつまんないシャレ」
「なんだかんだ言って、高木の方が強いもんねぇ」

相変わらず、要領がいいな。特別料理上手というわけでもないのに、椎ノ木は手際がよい。
手伝おうか、とも言わず、高木は、ご機嫌で野菜をザクザクいわせ始める親友を、手持ちぶさたに眺めるだけだった。

くたくたに煮えた野菜の甘味が、鶏のだしをまろやかに演出している。久しぶりに箸の進む食事だった。同時に酒もよく進んだ。ビールの空き缶が、悪ふざけの好きな椎ノ木によって、ピラミッドよろしく積み上げられている。

「まだ食べるでしょー?」

椎ノ木はニコニコしながら、器用に2本のスプーンを使って、鍋に鶏団子のたねを落としている。

「これ、ふわふわで旨いでしょ?」
「豆腐入れてたよね?」
「そうそう。よく見てるじゃん。だから形つくるの大変なの」
「ふうん」

料理のうんちくを聞き流しながら、高木はワイングラスを干した。これを女の子の前で披露したら、さぞかしモテるだろう。 まあ、とっくにやっているにちがいないけれど。

「鍋に白ワインって合う?」
「飲んでみる?」

高木は手酌でグラスに透明な液体を注いだ。それを椎ノ木にぐいっと差し出す。

「いただきまーす」

なんのためらいもなく受け取り、グラスに口をつける。それを横目で見ながら、高木はため息をついた。
こいつのこれは、常套手段だ。一口ちょうだい、という気軽なやり方で、それとわからないうちにスキンシップに持ち込むあれだ。

「誰にでもやるんだからなぁ……」

高木の口から、思わず独り言がこぼれた。酔っているのかもしれない。

「間接キスかぁ」

空になったグラスを透かして見ながら考えもなしにつぶやくと、椎ノ木が苦笑した。

「なによ、今さら」
「今さら、だよねぇ。直接キスだってしたことあるんだから」

止めろ、止まれ、と頭の中で誰かが叫んでいる。止まれない。思考を素通りして、口から言葉が滑り出る。

「高木、」
「ねぇ」

椎ノ木の制止を振り払うかのように、高木は強い口調で話し始めた。
考えなしの行動だけれど、考えすぎた末の行動でもある。

「何がダメだったの?」

最初の勢いに反して言葉尻が消えていきそうになったのは、自信のなさの現れだ。
拒絶された事実が、高木の強気をくじく。

「俺が男だから?俺じゃなくて、あの可愛い後輩くんだったら、許してた?」
「高木、やめなよ」

椎ノ木は懸命になだめにかかろうとするけれど、まるで逆効果だ。

「やめないよ。ねぇ、本気にならなかったらいいの?遊びだって割りきれば、受け入れてくれるの?」

まくし立てる高木を、椎ノ木は哀しそうな目で見つめていた。視線に込められた感情が、高木の苛立ちを助長させる。

「……っ、おい」
「椎ノ木……」

にじり寄って首に手を回すと、椎ノ木は抵抗を見せた。
好きになってもらえないのならば、嫌われても構うものか。半ば自棄ぎみに、その首筋にくちびるを寄せた。

「抱いてよ……本気にならないようにするから」
「……酔ってんなぁ、お前」
「酔ってない。でもその方が都合がいいんだったら、それでもいい」
「もう……はぁ」

軽く首筋を吸い、においをかぐ。抵抗を見せたのは一度きりで、されるがままになっている椎ノ木。
高木は急に不安になった。いよいよ呆れられたのかもしれない。

「……っ」

背中に手のひらの感触。そっと抱きしめられて、全身がふるえた。

「……鶏団子、浮いてきたぞ?」

感情のぶれを悟らせない落ち着いた声が、耳元で聞こえた。
それは飲み口のやさしい毒のように、高木を絶望へと突き落とす。どんな拒絶よりも、すっぱりと。

ポンポンとなだめるように2回背中が叩かれた。それから、なんでもないことのように椎ノ木は高木の身体を放し、鍋の灰汁を取り始めた。
たったそれだけ……?
自分の前にあった空っぽの取り皿に、できたての鶏団子が湯気を立てている様を見て、高木は視界を霞ませた。

「……お前は特別だからなぁ」

ぼそりとつぶやいた椎ノ木の姿が滲んで、涙が一粒零れ落ちた。

「それ、ずるいよ……」

その晩椎ノ木は、高木の部屋には泊まらなかった。




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