真昼の月

02




2. 初恋の痛み


突然落ちるもんだと知った。
俺の初恋。
高校1年の、秋だった。

俺は頭もスポーツも人並み以上だと自負していたが、高校は進学校で、そこそこ勉強のできるヤツの集まりだったから、俺の得意科目は必然的に体育になっていた。ごく自然な流れで体育祭のクラス対抗リレー選手に選ばれ、勝つために毎日練習に明け暮れていた。
その日もバトンを渡す練習とそこからのスタートダッシュを繰り返し、日が落ちてきたので解散になった。俺は、もう少し走って帰るから、と自らバトンの片付けを買って出た。

「ありがとな、飯田」

毎日の練習に付き合ってくれる担任の逢坂先生が、目尻にシワをこしらえながら言った。
逢坂先生は、教師らしからぬ無精ヒゲに色あせたジャージの一見くたびれたオッサンだが、案外歳は33と若い。33歳が若いかどうかは賛否両論あると思うが、夜の街に出入りしていると、中年のオッサンに引っかけられたりもするので、俺の中では若い方に入る。
年齢からして当然かもしれないが、妻子持ちで、子供は幼稚園に入ったばかりとか。あまり家庭の話題を職場に持ち込むタイプじゃないみたいなので、詳しいことはわからない。
校内では、とても熱血とは程遠いユルめの先生で、だからか生徒に人気がある。
その先生が、なぜかリレーの練習には積極的に参加して、熱い一面を見せている。逢坂先生の珍しい行動に、教え子たちは、何が一体?と皆不思議に思っていた。

「飯田、タイム取るなら測ってやるぞ?」

てっきり解散とともに先生も帰るものと思っていた。
柔らかい声色。それに促されるように、素直にストップウォッチを手渡す。
日の落ちたグラウンドに二人きり。
そう何本も走れやしないだろう。
良い記録1つ出たら、帰ろう。そう思い、スタート地点に立った。

結局、100を3本走り、まぁまぁの記録が出せたので帰ることにした。

「ありがとうございました」
「ん。気をつけて帰れよ」

去り際、俺の頭をデカイ手のひらでひと撫でする先生。175ある俺にそんな扱いするのはこの人くらいだ。
先生は俺より少しだけ背が高い。横幅はグッとデカイから、風貌は冬眠明けのクマみたいだ。
クマさんがノシノシとグラウンドを歩き去るのを見送ってから、俺はバトンの入ったカゴを持ち上げた。体育倉庫に向かう。
バトンを片付け、鍵をかけたところで、鍵の返却に職員室へ行かなければならないことを思い出した。

ちょっと待ってくれたら良かったのに。
肝心なところで抜けてる先生らしいな、と笑いが溢れる。
でも、まぁいいか。帰る前にもう1回だけ、顔が見られる。

俺は先生に恋をしている。
落ちたのはつい最近で、これが初恋だったにも関わらず、落ちた瞬間に恋だと気づいた。
自分自身は初めてでも、周りが色めきたつ話題に耳を傾けていれば、この感情の正体が何かなんて答えは簡単だった。



入学してしばらく、俺は中学のころと同じように、息を潜めて生きた。
高校は男子校だったから、これで面倒くさい女子からのアプローチも受けずにやっていける、と思っていた。一生懸命してくれる告白を、迷うことなく断り続けるのも申し訳なかったし、何より女子は勘がいい。いつゲイだとバレるかわからない不安は、男子校に来て少し薄らいだような気がした。

校内ではひっそりと生活していたつもりだったが、そのうち駅で近くの女子高生に声をかけられるようになった。苦手な女子だったが、学校外での薄っぺらい友人付き合いならば、当たり障りなくこなせることがわかり、俺は方針を切り替えた。
少しユルめで人当たりの良い飯田正成。それが、俺の作り上げた昼間の俺。

そうやって生活しはじめると、すぐに友人も増え、親友と呼べるようなヤツもできた。
絵に描いたような順風満帆な高校生活をスタートさせていたのに。
校内でも賑やかなグループに属し、勉強もスポーツもそれなりにこなす俺に、担任だった逢坂先生は個人懇談でこう言ったんだ。

「飯田は器用そうだな。……でも無理してるように見えなくもねーな。しんどかったら言えよ。話聞いてやるから……」

正直びっくりした。
完璧に演じていたはずなのに。親でさえ、俺の人生は順風満帆だと信じて疑ってはいないのに。
入学してたかが1ヶ月で、他人にそんなこと言われるなんて。

「大丈夫です」

その場はなんとか答えたが、よく見てんな、と思った。

見られてる、と思うと意識が自然と先生に向いた。
逢坂先生は、風貌こそくたびれたクマみたいなオッサンだが、空気を読むのがうまく生徒に声をかけるタイミングが絶妙だ。
担当は数学。授業もわかりやすく、板書もきれいで整然としている。
そんな先生だが、プリント渡し忘れたり、時間割変更を忘れて遅刻してきたりと、少し抜けたところがあって、完璧じゃないところが憎めない。教師という職業にそんなに使命感を抱いている風でもなく、少々の校則違反は見逃してくれるし、押し付けがましくもない。
じっくり見ていると、この先生が生徒に慕われる理由がよく分かった。
その上でこの観察眼。
侮れないな…、なんて俺は思っていて、慕うというよりは警戒していた。

表面上では当たり障りなく優等生を演じ、内心は先生を警戒して過ごした半年。
俺の気持ちがガラリと変わったのは、夏休み明けのことだった。

その日のホームルームは、体育祭に向けての話し合い。出場する競技を黒板に羅列した体育委員が仕切っている。
先生は、それを教室の隅で特に口を挟むこともなく眺めていた。

「正成、騎馬戦出るだろ?」

半年の間に親友と呼べるほど仲良くなった佐々木武弘が、椅子ごとこっちを向いて聞いてきた。

「何その決定事項」
「だって体育祭と言えば騎馬戦じゃん。参加しなきゃ盛り上がれねー」

お祭り男の武弘らしいセリフに、笑みが溢れた。

「お前ははしゃぎすぎて馬から落ちて自滅するタイプだな」

言ってやれば、お前がクール過ぎるんだよ、と返ってきた。
クールを演じたつもりはないが、武弘にはそう映るらしい。いつも賑やかで、クラスの中心になって盛り上げる武弘と比較すれば、そりゃクールと言えなくもないが。
結局武弘に引っ張られるように、騎馬戦に出ることになった。

「えークラス対抗リレーなんですけど……」

体育委員が次の競技について話し始めた。

「短距離走の持ちタイムで決めてもいいんですが、こういうのはやっぱりモチベーションが大事だと思うんでー、立候補で……」

体育祭の花形、ラストのクラス対抗リレーか。
確かにタイムも重要だけど、気持ちが前に出る競技だからな。体育委員の言うことももっともだ、と頷く。
突然、武弘がガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。

「正成、お前出ろよ。短距離得意じゃん?それに、絶対よそから見に来る女子いるんだから、ファンサービスしなきゃ!」
「は……?」

なんだそれ、と口を開ける。

「そうだな、飯田は出た方がいいな。なんならアンカーで……」
「タイム的にもアンカーでいいんじゃね?」

俺の存在は置き去りに、クラスは盛り上がり始め、後には引けない空気になってきた。
さすがにそこで無理、なんていうほど空気を読めなくはない。

「……分かった。リレー出るよ」
「良かったー!これで盛り上がるぜ」

武弘の嬉しそうな声に、苦笑した。
親友の喜ぶ顔を見ると、こっちまで嬉しくなる。



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