真昼の月

04




3. 夕暮れの慟哭


「正成、最近やせた?顔色悪い気がするけど……」

体育祭前日の朝、武弘がいつもの明るい表情を引っ込めて聞いてきた。

「……ちょいゲームやりすぎて寝不足だからじゃね?」

思い当たることがありすぎるけど、親友を心配させたくなくて、そう答えた。
半分は本当。眠れないんだ。
恋は人を幸せにするって、どこの都市伝説だ?俺に限っては、この先の想像もつかない不毛な恋なんてつらいだけだった。

「そうかぁ?ま、そういうことにしといてやるけどさ。なんか悩みとかあんだったら言えよ?」

どっちかって言うと鈍感な武弘にまで心配されるとか……。
ダメだな、俺も。

「さんきゅ。お前はやっぱ親友だな!」

茶化すように肩を組んで言えば、

「おうよ、相棒。俺には何でも話してくれよなー」

と返ってきた。

「お前らホント仲いいよなー」

クラスメイトの言葉に、武弘と二人、顔を合わせて笑った。



体育祭当日は、気持ちの良い秋晴れの空が広がっていた。

「くーっ!天高く馬肥ゆる秋だな!」
「馬関係ないし……」
「大アリだよ。俺ら騎馬戦出るんだから!」
「武弘……。騎馬が太ってちゃ動きが悪くなんだろ」

入場門付近でバカな会話を繰り広げる。俺たちの周りを、クラスメイトの笑い声がとり囲む。
こうしていると、全ての悩みなんてなかったかのように笑える瞬間もある。
ただ。それはほんの一瞬で。

「おーい、お前らふざけてないでちゃんと並べよぉ。高校生にもなってセンコーにんなこと言わせんなー」

ユルい感じでお小言喰らわしてくるその声に、全てを思い出すんだ。
この人を想って眠れない夜を。自分一人ではどうにも昇華できない切なさを。
顔を見ると切なさが溢れ出してくるというのに……。それでも顔が見たくて、俺はくだらない話を止め、声のする方を振り向いた。
逢坂先生は、今日が特別な日だからなのか、しゃんとしたジャージを身に付け、無精ヒゲも剃ってきていた。

「お。センセ、今日はわりとピシッとしてんじゃん」

その姿に、武弘がすかさず突っ込む。
一瞬見とれてしまった俺は、少し反応が遅れた。曖昧な笑みを浮かべ、先生を見つめる。
俺の視線に気づいてか、先生が俺の方を見て、フワリと笑いかけた。
心臓がバクンと鳴る。 間違いなく俺だけに向けられた笑顔に、胸がわしづかみにされる。
嬉しいけれど、切なくてつらい。矛盾する想いは、吐き出されることなく俺の中に鬱積してゆく。
お祭り騒ぎの明るさと、俺だけが抱える深い闇。その明暗差が大きければ大きい程、俺は感情の迷路に迷い込み、二度と戻れなくなる気がした。

その後のことは、流されるままにこなし、あまり記憶にない。
武弘が楽しみにしていた騎馬戦も、騎馬としてひたすら走り、後で上の奴からよくやったと労われたからそつなくこなしたんだとは思う。
ただ、最後のリレーだけは違う。
俺が出ると言ったら、先生は本当に喜んでくれた。日が暮れるまで、先生と毎日練習した。

選手の列に並びながら、俺は妙に頭が冴え、視界がクリアになってゆく気がした。
なぜか気分も高揚する。
こういうの、ナチュラルハイっていうのかな……。ろくに寝てないからかも。

唐突にピストルの音が鳴り、気づけば第一走者が走り出していた。
急に耳に飛び込んでくる音楽と歓声。
俺は、アンカーの印になっているたすきを握りしめた。

あれよあれよと言う間に最終走者まであと1人。会場の盛り上がりも最高潮だ。
高校男子はまだ1年生と3年生に体格差がある。運動能力的にもハンデのある中、俺の前走者はサッカー部の小林という奴で、12チーム中5位でコーナーを通過した。
小林がアンカーでも良かったのに、なぜか帰宅部の俺に任された大役。多少のプレッシャーを背負いながら、バトンを受け取った。

プラスチックの感触を手のひらに受けた瞬間から、俺は真っ白になった。
声援も聞こえない。
ただ、ひたすら。……風になるだけ。

前を走る先輩たちの背中は近づいたり追い抜いたり。何人どうしたかは全く覚えていない。もちろんゴールテープを切ることなんて、できるはずはないけど、俺は全力で走った。

倒れ込むように入ったゴールの先に、大好きなその笑顔を見た。
大歓声の中、終了のピストルが鳴り、そっから先、俺はまた記憶をなくした。



我に返ったときには、すでに夕暮れ。
オレンジ色に染まった教室には誰もいなかった。

気づいた場所が保健室ではなく教室だったし、誰も残ってないところを見ると、俺は無意識のうちに体育祭の片付けまで参加した上で、用事があるとか何とか言って先に武弘を帰らせたらしい。
深層心理帰りたくない気分だったんだな、俺は。……多分。

体育祭が終われば、リレーの練習も終わる。
担任だから毎日会うけれど、先生との特別な時間もこれで終わり……。
――終わらせたくなかったんだ。

しばらく教室の窓から、祭の余韻残る運動場を眺めていた俺の耳に、ドアを引く音が入ってきた。
分かっていた。
ここにこうしていれば、きっと来てくれるって。

「飯田。帰んねーのか?」
「うん……」

珍しくタメ語な俺の返事にも、帰らない理由にも言及することなく、先生は話し始めた。

「今日はよくやったな。まさかお前があれほど走れるとは思わなかった。こりゃ週明け運動部からの勧誘が大変だな」
「あの……先生、俺……何位でゴールしたんすか?」
「え?……記憶ねーの?」
「うん……寝不足でぼーっとしてて……」
「大丈夫か?お前は3位で入ったんだぞ?もちろん学年では1位だ。みんな喜んでたし、お前も輪の中にいたから……、飯田?」
「センセ、俺……」

夕焼けに半分照らされた先生の顔が、俺を覗きこみながら少しだけ曇るのを見つめていたら、俺の感情が決壊した。

「……なっ、飯田っ?」

突然教室の床に膝を突き俯いてしまった俺に、先生は心底驚いた声を出した。
顔が上げられない。

「先生……なんで眠れないか、聞いてくれる?」
「え……」
「何でも話せって、言ったよな……?」
「あ、あぁ」
「先生……、俺ね」

鼓動が、早い。

ぼやけてきた視界に構わず、ゆっくり顔を上げたら、先生の当惑した顔が見えた。
揺れる眼差しを向けると、視線が絡んだ。そのまま停止。
聡い先生のことだから、俺の言いたいことなんてきっと分かっているに違いない。
それでも俺は、声に出さずにはいられなかった。昼間の薄っぺらな俺自身に引導を渡すために。

「センセ、好き……」
「……飯田」

夕暮れのオレンジに染まった先生の瞳から、俺は視線を外さなかった。
そのまま勝手に口が動く。

「先生のことばっか考えて、眠れねーんだ。どうしようもないってわかってるのに……」
「飯田、俺は……」
「分かってる。先生を困らせたい訳じゃない。てか、ホントごめん。忘れて」

言ってることが無茶苦茶だが、思考能力はすでになかった。

「飯田、あのな……」
「答えなんていらない。俺の独り言だと思って聞いてよ」

再び俯いた俺の両肩を、先生が掴んだ。

「ちゃんと聞いてるから、ちゃんと答えさせろ。……飯田、俺はお前が可愛いよ」
「え……」

予想外の答えに一瞬浮上する。

「確かにお前は生徒の中では特別だ。特別可愛いっていうこの感情は、もしかしたらお前の言ってるものに近いのかもしれない。……でもな」
「……」
「俺はお前には応えてやれない」
「うん……」
「一時の感情に流されちゃいけない。家庭を持つってことはそういうことなんだ」

当たり前の事実。
先生の性格上、分かりきった結末。

「うん……分かってる」
「……ごめんな」

夕日を背に項垂れる先生に、申し訳なさが湧いてくる。
同時にやり場のない切なさも。

「俺、帰ります。さよなら。先生も早く帰って忘れろよな」

立ち上がり、形だけの挨拶をして、先生に背を向け後ろのドアに向かった。
後ろ手にドアを閉め、廊下を走り出す。人気のない校舎に、俺の足音が響く。
普段からあまり人通りのない体育館裏にたどり着き、俺は足を止めた。

「は……はは……」

なんで言ってしまったんだろう。分かりきった結末に、なぜか笑いが溢れる。
先生の苦渋に満ちた表情を思い出す。
俺の気持ちに近い特別?近くても遠い。
特別じゃなく、唯一って言葉が欲しい。

「……っう……ぅ」

誰もいない建物の陰で、暮れていく空を仰ぎ見ながら、俺は声をあげて泣いた。



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